思い出の一枚 

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 天孫降臨の地として知られる宮崎県高千穂町のくしふる神社である。
 
 天孫降臨神話とは何か。『古事記』には次のようにある。オオクニヌシの国譲りがあって、アマテラスと高木神(日本書紀ではタカミムスヒ)は日継ぎの御子のアメノオシホミミに降臨を命じた。そのとき、オシホミミと高木神の娘トヨアキツシヒメとのあいだに子が生まれたので、その子ホノニニギを代わって天下りさせて瑞穂国を統治させることになった。猿田彦が八衢(やちまた)に現われて道案内した。五つの族長が供につき、三種の神器が与えられたのち、アマテラスは「この鏡を我が魂として祀れ」と命じた。ホノニニギは筑紫の日向の高千穂のクシフル峰に天下った。

 先行する海外神話としては、まず、朝鮮檀君神話があげられる。『世界神話事典』(角川書店)による。
 
 天孫の檀君が古朝鮮を開き、その始祖になったという伝え。『三国遺事(さんごくいじ)』(紀異巻1)によると、天帝桓因(かんいん)の子桓雄(かんゆう)は、天符印(てんぷいん)三個を父より授けられ、臣下3000人を率いて太伯(たいはく)山頂の神檀樹という神木の下に降臨した。そして洞穴にいた虎と熊が人間に成ることを祈っていたので、蓬(よもぎ)と蒜(にんにく)を食べて忌籠(いみごも)るよう告げると、熊だけが女となり、桓雄と結婚して檀君を生んだ。檀君は平城に都を開き、1500年の間国を統治したという。

 先行神話とされてきたもう一つの朝鮮神話が朝鮮首露王神話である。『世界神話事典』による。同じ『三国遺事』の伝えである。
 
 むかし、加羅国のできる以前、我刀干ら九人の首長が支配していた。金官国の亀旨峰に神の声がして、「私はこの地方に新しい国をつくり、その王となるよう天上の神から命令されて降臨するので、皆は歌い踊りながら待つように」と伝えた。そこで人々が迎神の祭りを行なっていると、紫色の縄が天から垂れ、その縄のつくところに、黄金の卵が六つあった。我刀干らがこの卵を箱に入れて家に持ちかえると、十三日めに、六つの卵は童児に変わっていた。その中の一人は、金官伽耶(かや、加羅に同じ)国の首露王になり、残りの五人はそれぞれ五伽耶の王になった。

 これに対し、大林太良氏は、『神話と神話学』(大和書房、1975年)でモンゴル族のゲセル神話との類似を指摘されている。

 至高神サガンは民の哀願を聞き、悪者退治を決意した。彼は天上の神々を集めて大評定を開いた。最初、サガンの子チュルマスを下すべきことが提案されたが、チュルマスは老齢を理由に自分の末子四歳のゲセルを推し、ゲセルは、①全天の神々の智謀、②祖父の持つ黒い軍馬、③兵の準備金、④祖父の蹄縄、⑤祖父の槍、⑥一人の妻を所望して、山上に天下った。

 大林氏のあげる天孫降臨神話との類似は以下の4点である。A天神の子が断り孫が天下る。B天下る神は幼児。C日本の三種の神器に当たる六種。D荒ぶる葦原中国を平らげるために神々が集い天下りが行なわれた日本と同様に蒙古でも荒ぶる下界の神々平定のために天の神々の評定が開かれた。

 大林氏の結論は、《北方系のアルタイ語系牧畜民文化を母体とした神話が日本へ入った》であった。

 このような先行説に対する私の考えである。

 アマテラスは天上で稲田を作っていた。『日向風土記逸文』によると天孫ホノニニギは稲穂を散布し、天空を輝かせながら高千穂の峰に降臨する。瑞穂の国、穂のににぎ、などすべて稲に関わる語である。天孫降臨神話は稲作を伝えた物語でもある。この重要モチーフが牧畜民文化の北方アルタイ語系神話には存在しない。

 朝鮮の檀君神話には穀物の神を率いて天下る筋がある。しかし、朝鮮の穀物は華南からきており、日本の稲作の主流も華南に由来する。天孫降臨神話の由来を従来の神話学の成果だけでは説明できない。

 中国南部に流布する稲作天授神話の幾つかを紹介する。まず、広西チワン族自治区ミャオ族である。
 天に姉弟の神がいた。ある日、姉は弟に地上に降り人間を治めるようにいった。弟は地上に降ったが、稲がなく、他の穀物も十分でなく、食物に困った。弟は姉に訴えた。姉は、「春になったら、私が稲の穂を天から蒔いてあげます」と約束した。その言葉通りに、春になると、大地に稲が芽を出し、秋には沢山の収穫があった。それ以来、人間は稲を栽培しつづけている。
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 日本の天孫降臨神話と顕著な類似点がある。
①女神の命を受け、肉親の男神が天下っている。
②男神の降臨の目的は共に働いて人間を治めることであった。
③稲は天上から地上に蒔かれている。

 次は雲南省ナシ族の神話である。
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 大昔、近親婚を怒った神は大洪水で人類を滅ぼした。皮鼓に入って一人生き残ったツォゼルウは天神の娘ツツプブミと恋に落ちた。若者は、天神が課した七つの試練、一日のうちに九つの林の木を伐る、伐採した木を一日で焼き払う、焼け跡に穀物を撒いて収獲するなど、をツツプブミの知恵に助けられてことごとく突破した。さすがの天神も二人の結婚を許し、馬、牛、銀椀、金椀、穀物の種子などを与える。二人は地上の多くの種族の祖先となる。

 前半は洪水型神話であり、後半はスサノオとオオクニヌシの出雲神話と同型の難題聟である。しかも天神の娘が人間の男と結ばれて、天上から宝物、家畜、稲作をもたらす話となっている。

 次はタイ族の神話である。
 遠い昔、天に一柱の天神がおられ、広大な田地を所有し莫大な収穫をあげていた。そのころ、人類は穀物を知らなかった。木の実を取り、猟で餓えを満たしていた。ある日、天神の娘が空から人間の生活を見て同情し、父に穀物を人間に与えるよう頼んだが、父は承知しなかった。天女は父の目を盗んで一袋の穀物を盗んで人間に恵んだ。怒った父は彼女を牢に入れたが、逃げ出した天女はさらに多くの穀物と綿花を盗んで人間に与えた。天神は激怒して犬にして下界に追い下した。人間は犬となった彼女に感謝し、毎年の一月の戌の日、魚肉、野菜、新米をまず犬に食べさせることにした。
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 このように、犬が天上から穀物を盗み、人間に与える神話は華南の他の民族にも伝えられている。犬以外に燕、雀、鶴、鳳凰などが盗む神話もある。

 次は雲南省トールン族の神話である。
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 洪水で生き残った少年は、天神と出会い、虎の後について天に登った。天神は二人の娘のうち一人を嫁にえらぶよう少年にいった。二人のうち、一人は魚の嫁になることを願っていたので、少年はもう一人の木美姫をえらび、地上に伴った。そのとき、天神は穀物の種、鳥獣、蜂の種、薬酒などを土産にくれた。利口な木美姫は父が稲の種をくれなかったことに気付き、稲倉から稲籾を盗み出した。天神はふたりに途中けっして振り返えるなと警告した。しかし、鳥獣の吼え声で姫が振り返ったために多くの動物が逃げ去り、牛、豚などわずかな家畜が残った。五穀の種は持ち帰ることができた。天神は地上に稲が生長しているのを見て驚き、収穫物の一部を天上に回収した。実のない空の穀粒があるのはそのためである。
 
 華南の地にはこのような稲を天上からもたらす話はまだ数多く伝えられている。
以上を総合して、天孫降臨神話は大きくニ系列となる。

 天孫降臨神話の骨格は、A天上の神たちが宝器を持って地上に降って支配者になる宝器神話、Bその際に天上から穀物、ことに稲を地上にもたらした稲作神話、の二系列となる。このうち、Aの宝器の系列は北方アルタイ語系諸民族の山上降臨型神話によって形成された。
しかし、Bの稲作の系列は、中国南部の少数民族農耕民の天から穀物をもたらした神または人が地上の人類の祖先または支配者になる神話によって形成された。
このBのモチーフは大陸から直接に伝来したものと、朝鮮半島で北方系神話と習合してから日本へ伝来したものと、大別して二種あった。この二種は、日本への稲作伝来ルートに対応している。
 このBの系列と結合して、中国南方農耕民の稲魂信仰、太陽信仰なども日本へ伝来していた。

 日本の古代文化の本質を稲作文化と考える説がある。柳田国男に代表される日本の民俗学は長く日本文化を稲作文化と規定してきた。
しかし、これには反対説もあった。宮本常一・坪井洋文・網野善彦・佐々木高明・杉山晃一らの各氏が唱えていた。
 
 このような反対説のあることを承知のうえで、私は日本古代の本質を稲作文化と考える。そこには二つの理由があげられる。
仙人洞遺跡
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 第一の理由は、華南文化と日本古代文化が同質の稲作文化で結ばれていることである。さきほど説明したように、アジアの稲の起源地は中国長江中流域と決定している。湖南省玉蟾岩遺跡から一万二千年前の栽培稲の稲籾が発見されている。一九九五年のことである。その年、湖南省の首都長沙で開催された考古学学会に参加した私は、この稲籾を顕微鏡で確認した。すこし遅れて隣接する江西省仙人洞遺跡からも一万二千年前の栽培稲が発見されている。
 稲作は直接に、朝鮮半島経由の間接に、二つの経路で日本へ渡ってきた。稲作一辺倒論は否定されなければならないが、稲作文化が日本古代文化の重要な根幹をなしていることは否定できない。
 
 第二の理由はアマテラスを中心とした王権神話である。
 すでにみたように日本の王権神話の中心にはアマテラスが存在する。アマテラスの本質の最重要要素は稲魂である。稲の文化は、日本の古代文化の本質を形成しただけではない。稲の文化を誕生させた『大地、女性、太陽』という三大要因は、日本の歴史を貫流し、いまも日本人の精神と文化を支えている。以上は、私が著書『大地 女性 太陽 三語で解く日本人論』(勉誠出版)で詳述したことである。



日本国家の誕生と永続 (20)
―伊勢・出雲・三輪三社の神話に探るー
  Ⅹ 日本国永続の理由
4 中心にある女性霊力・大地の信仰

 日本の王権の原型は二世紀後半から三世紀にかけて、倭人が建国した邪馬台国の卑弥呼と弟の関係にまでさかのぼる。ヒメ・ヒコ制とよばれ、王位にある女性がその霊力で祭事を、従属者である男性が政治を分担する制度である。そののち、ヒメ・ヒコ制は、制度をささえた精神とその根底にある女性の霊力にたいする信仰と、二つの方向にわかれて、日本の王権と社会の民俗にふかく根をおろしてゆく。
1 日本古代の王権で、女性が王位を継承する巫女王=女帝の制度は八世紀以降、日本の国家制度が整備されてゆく過程で、皇位継承権を男性天皇にゆだねて衰亡してゆくが、しかし、天皇は実際政治に関与せず、祭事に専心するというヒメ・ヒコ制の精神は日本の王権に継承され、現在にまでうけつがれている。
2 他方、女性がその霊力で男性兄弟を庇護する、ヒメ・ヒコ制をささえた基本信仰は、後宮制度、伊勢信仰 ((斎宮)、オ( ヲ)ナリガミ信仰などに分化して、やはり日本文化の底流を形成する。
 日本国家成立期の官僚制度の手本は中国の律令制にあった。この時代に編纂された飛鳥浄御原律令、大宝、養老の各律令を検討することによって、当時の日本がどのような国家体制をめざしていたかがあきらかになってくる。膨大な量の論考がこれまでに発表されている。その研究動向は次の三つに分けることができる( 武光誠氏『律令制成立過程の研究』雄山閣)。
 一 日中律令の相違が、どのような政治権力の違い、中国の皇帝と貴族との関係と、日本の天皇と貴族との関係の違いを反映しているかという問題。
 二 日本律令の中の中国の原形と異質な側面をさぐることから、中国律令と日本の固有法との交渉がどのように行なわれたかという問題。
 三 日本国家の成立過程の考察をとおして、中国律令が、どのような過程で日本に受け入れられたかの問題。
 しかし、私の関心はこの三種のなかにはふくまれていない。
 私の志向するテーマは次のようになる。「日本律令と中国律令の同質性は中国の北方原理に由来し、異質性は中国の南方原理に由来する。」この第二の動向に注目してみよう。日本律令と中国律令とを比較したときに、同質の側面と異質の側面があることは、これまで多くの研究者が指摘してきた。しかし、これまでの研究には次の二つの視点が欠けている。
 
1 中国文化を北方と南方にわけ、隋唐帝国によって制定された中国律令を北方原理の表現としてとらえる視点。
2 日本の固有とみられる特質はじつは中国の南方原理に由来するという視点。

              つづく