思い出の一枚

京都府伊根市浦島神社である。昔話「浦島太郎」の浦島を祀る神社で、玉手箱などの宝物見学や重要文化財の掛幅を使った絵解きを聞くこともできる。
「浦島太郎」は多くの日本古典に登場するが、詳細化した「丹後国風土記逸文」(釈日本紀収載)から概略を紹介する。
与佐郡日置(ひおき)の里筒川の村に水江の浦の島子という風流人がいた。島子は一人小舟で沖に出、五色の亀を釣りあげる。その亀は絶世の美女となり、海中の大きな島、蓬莱山に伴った。御殿の前で、スバルとあめふり星の化した童子たちに遭い、彼女の名が亀比売と知らされる。比売の父母に仙人たちも加わって宴会が始まり、二人は結婚した。幸福な三年の歳月が過ぎた。島子は故郷がなつかしく、止める亀比売を振り切って帰ることにした。決して開けるなといって亀比売は玉匣(たまくしげ)をくれた。故郷に帰るとすでに三百年が経過していた。驚いた島子が玉匣を開けると、かぐわしい身体(亀比売か)が現われ、蒼天の彼方に飛び去った。二人は歌を詠みかわす。
「万葉集」巻九の高橋虫麻呂の長歌にも詠まれている。
住吉(すみのえ)の水の江の浦島子は七日間も釣に興じていた。そのとき、わたつみの神の女(おとめ)と出会い、結婚の約束をしてわたつみの神の宮を訪れ、不老不死の生活を送っていた。しかし、故郷の父母に逢いたくなった浦島子は故郷へ戻ろうとした。妻の神の女は、常世にまた戻ろうと思うなら、開けてはならないと匣(くしげ)をくれた。住吉にもどると家も里も無くなっていた。玉匣を少し開くと、白雲は常世へなびき、浦島子の肌はしわばみ、髪の毛は白くなり、ついに死んでしまった。常世に住めるはずだったのに愚かなことよ。
伊根町浦島神社蔵「浦島明神縁起」は室町時代成立といわれる掛幅である。その一幅。蓬莱島についた浦島子と亀比売

玉手箱 伊根浦島神社蔵

浦島伝説の分布は』日本全国四十数か所に広がっている。「よこはまの浦島太郎展」(横浜市歴史博物館 2005年)は次の十一箇所をあげる。
1京都府伊根町 2京都府丹後市 3広島県尾道市 4香川県詫間町
5愛知県武豊町 6愛知県蒲郡市 7埼玉県両神村 8福島県いわき市
9長野県上松町 10石川県松任市 11鹿児島県指宿市
5愛知県武豊町 6愛知県蒲郡市 7埼玉県両神村 8福島県いわき市
9長野県上松町 10石川県松任市 11鹿児島県指宿市
日本の記録に残る浦島伝説には大きく二つの型がある。一つは丹後半島を舞台とする「日本書紀」「風土記」が伝える蓬莱山にたどりつく蓬莱山型であり、他の一つは摂津住吉の浦を舞台とする「万葉集」に詠まれた竜宮に行く竜宮型である。この二つは竜宮型が優勢となりながらもその後に受け継がれた。
日本の浦島伝説の原型については「日本書紀」・「丹後風土記」説(沢潟久孝、水野裕、西村真次、重松明久など)、「万葉集」説(佐佐木信綱、木村正辞、久松潜一など)があってまだ決着していない。
当然ながら、浦島伝説の成立を日本国内の資料のみで解明することは不可能である。海外の伝説を参照しなければならない。
中国型 君島久子編『日本民間伝承の源流』小学館、1989年
漁夫が嵐の洞庭湖(長江流域、湖南省)で、水に落ちた一人の乙女を助ける。乙女は実は竜女、お礼に、水を分ける力を持つ「分水珠」を渡し、竜宮に来てくれるよう頼む。後日、漁夫は分水珠で水を分け、湖底の竜宮城へ行き、竜女と結婚して幸せに暮らす。あるとき、故郷の母が恋しくなった漁夫は帰郷しようとする。竜女は宝の手箱を渡し、開けてはいけない、しかし、自分に逢いたくなったら、箱に向かって自分の名を呼んでくれ、という。
故郷に帰ると竜宮の一日は人間界の十年にあたり、母は昔に亡くなり、様子はすっかり変わっていた。驚いた漁夫が、箱を開けると、煙が立ちのぼり、青年の漁夫はたちまち老人となって死んだ。洞庭湖の干満は、漁夫の死を悲しむ竜女のため息のせいだという。
韓国型 孫普泰『朝鮮の民話』岩崎美術社、1966年
一人の漁夫が釣りで老母を養っていた。ある日、一匹の黄色な鯉が針にかかった。しかし、鯉が泣くように見えたので海に放してやった。翌日、漁夫が海岸に出ると、竜王の使いという青衣の童子が現われ、昨日、竜王の姫を救ってくれた礼に竜宮に招待したいという竜王のことばを伝えた。童子が呪文を唱えると海は二つに割れて立派な大道が出現した。竜宮に到着した漁夫は大歓迎を受け、竜女と結婚して幸せな時間が過ぎた。ある日、故郷の老母を思い出した漁夫は、呪文を唱えると海中に道ができるが、開くと何の役にも立たなくなるという宝箱をもらい、呪文を教えてもらって故郷にもどった。故郷の海岸に帰った漁夫は箱の中を見たくなり、箱を開くと、薄い煙が立ちのぼり、漁夫は二度と竜宮にもどれなかった。
中国と韓国の説話はよく似ている。漁師、竜女、救済、竜宮、結婚、水を分ける玉手箱、帰郷、玉手箱を開く、など主要なモチーフは一致している。両者の影響関係を想定する説があるのは当然である(三舟隆之『浦島太郎の日本史』吉川弘文館、2009年)。
しかし、決定的な違いもある。中国説話では、竜宮界の一日は人間界の十年にあたるという時間のズレがあるのに、韓国説話にはそのモチーフがない。この違いから、浦島説話の本質が見えてくる。
さらに私が収集した中国南部・台湾の水界訪問譚を紹介する。
貴州省・広西チワン族自治区トン族 「郎夫と三人の竜女」
郎夫は木を伐採して母を養っていた。あるとき、彼が竜の淵のそばで鉈(なた)を研いでいると、その音響で、一人の美しい娘が現われ。騒音に抗議した。次の日、また同じ場所で鉈を研いでいると、今度は別の美しい娘が抗議に現われた。そんなことが三日続き、三日目に現われた娘は美しい、しかしおとなしそうな娘であった。その娘は郎夫が誠実な働き者であることを見抜き、自分が竜王の三番目の娘であること、父が郎夫の鉈を研ぐ音で痛みを発していることなどを告げ、郎夫を父の許にともなった。郎夫の訪問によって、竜王の病は治癒し、郎夫は、竜宮の宝物の緑の傘をもらい、三女とともに地上にもどって二人は結婚した。
雲南省ラフ族の漁夫
昔、ひどく貧しいが人に親切な漁夫がいた。ある日、大河の堤のほとりで網を投げて魚をとっていると、大きな岩のうえで一人の老人が泣いていた。漁夫はこの老人にわけを尋ねた。老人は、「自分の娘が奇妙な病気にかかってなおすことができません。どうか家に来て、娘の病気を診てください」と頼んだ。承知した漁夫は老人について堤を歩いた。すると老人はどんどん水のなかに入っていった。驚いた漁夫が老人にむかって「水のなかには入れない」と訴えた。
「急がずにわしについてきてください。水のなかでも地上を行くように進むことができます」と老人は答えた。漁夫は不思議に、地上を行くように水中を歩くことができた。まもなく、一軒の美しい家が見えてきた。その家の一室に、娘が漁網にからめられて横たわっていた。漁夫がその網を取り除いてやると、娘はすぐに元気になった。父と娘は感謝して、たくさんの金銀を礼にさし出した。しかし、漁夫は、それを断って、代わりに刀と鋤(すき)を望み、その二品をもらった。漁夫がその家を去ろうとすると、門の横に黄牛と白牛がつながれていた。老人は、多量の牛の糞(ふん)を袋に入れ、漁夫に背負わせ、「野菜を作るときに肥料にしなさい」といった。漁夫が家に帰ると、不思議にも、黄牛の糞は金、白牛の糞は銀、刀は金の刀、鋤は銀の鋤に変わった。漁夫は農夫になって幸福に暮らしたという。
湖南省トウチャ族の竜宮説話
ある村里に二人の兄弟がいた。兄は格路、弟を格山といった。兄夫婦が格山につらく当たった。堪えられなくなった格山は、ある老人のすすめに従って家を抜け出し、さまよい歩く途中、大蛇に襲われて呑み込まれそうになった一羽の黄鶯(こうおう)を助けた。すると、その鶯は美しい人間の娘に変わり、竜王の三女であると名のり、格山と夫婦になって、竜王の国に赴いた。格山は竜宮で連日歓待をうけたが、やがて望郷の念が昂(こう)じ、女房を伴って地上へ戻った。帰郷に際し、竜王が金銀財宝を土産に与えたが、格山はそれをことわり、「郷里は水が不足し、田作りもままならず、人びとは暮しに困っている。水を自由にできるものが欲しい」と願い出た。そして呪宝の竜珠をもらい受け、竜王の娘と故郷に戻った。そこで二人は山のうえに登り、頂から竜珠を傾けると水が奔流となって噴出し、たちまち村の田という田は潤い、おかげでトウチャの人びとは裕福になった。
如意宝珠の竜珠を土産に持ち帰った格山は、その珠から立派な御殿を出し、その御殿で竜王の娘と幸福な日々を送った。意地悪な兄夫婦はそれをねたんで、二人を焼き殺そうとするが、格山は逆に竜珠で兄夫婦を焼き殺し、他方、その竜珠から水を噴出させて、トウチャ族の田畑を立派な、豊穣な耕地に変えた。
台湾アミ族の水界伝説 田哲益『阿美族 神話与伝説』
昔、アミ族の祖先の男が、釣りに出かけ、足を滑らして河に落ちてしまった。そのまま水に流されて、海に着いた。海を漂ってたどりついたところは、男子のいない女性ばかりの島であった。島の女子たちは、彼を捉えて、海や陸の珍味と酒でもてなした。夢のような時が過ぎていった。あるとき、男は故郷と家族を思い出し、なつかしくなって海を見ていた。すると、海上を一頭の鯨が泳いでいた。アミの男が鯨に訴えると、鯨は「故郷へ連れ帰ろう。故郷へ戻ったら、山猪五頭、酒五瓶、ビンロウ五袋を供えて、五日のちに海上で我を祭れ」といった。アミの男は承知して、鯨の背にまたがった。その瞬間に故郷にもどることができた。しかし、故郷の知人はすでにほとんど亡くなっていて、だれも男を知らなかった。ただ、一人の老人が、「以前に祖父から聞いたことがある。一人の村の男が河に行って行方不明になったということだ」という。もどった男は約束通りに五日後に海辺で祭りを行なった。鯨は肉とビンロウを食べ、酒を飲んだのち、アミ族に船の造り方を教えた。
このアミ族神話に対する台湾研究者の解釈である(王孝廉『東北、西南族群及其創世神話』時報出版公司、1992年)。
王氏は浦島伝説との類似を六点数えあげる。
1 漂流して海に入り、現実社会と完全に断絶した地に行く。
2 仙境に類似した地で幸福な生活を送る。
3 故郷をなつかしむ情に耐えず帰郷する。
4 故郷はすっかり変わっていた。
5 時間が経過してしまっていて、アミの男を知っている人はなく、男は白髪となる。
6 仙境にもどることはできなかった。
王氏は、この類似する日本とアミの二つの話の共通の典拠として、中国の魏晋時代以来の仙郷伝説をあげ、中国の仙郷伝説のもっとも重要なモチーフは「山中の一日は世間の百年」という時間のずれであり、日本の浦島伝説の竜宮竜女との結婚の物語も漢族や少数民族にふつうにみられるという。
時間のずれという点だけを重視すれば、中国の仙郷伝説が、アミの女人島伝説と日本の浦島伝説との共通の母胎であるという王氏の主張も納得がいくが、しかし、仙郷(境)とは本来山中の異境であり、海中におもむくアミの女人島や浦島の竜宮とは異なる場所で、中国大陸の道教の神仙思想の産物である。前掲のアミ族の神話には、王氏が、2や6で仙境といいきるような場所は登場していないのである。
日本の浦島伝説でも『日本書紀』や『丹後風土記』が伝える浦島は、蓬莱山に至り、仙人と出会う筋となっているが、『万葉集』などの伝承では、神仙は登場していない。
同じ中国でも南部少数民族水界訪問譚を検討してみよう。
1 ほとんどすべて水の世界をテーマとし、蓬莱山と結合した神仙伝説はない。
2 竜女を主人公とする竜宮伝説が多い。
3 そのなかでもっとも注目される伝説は、イ族の「笛吹少年と魚娘」である。この伝説には神仙も竜宮も登場しない。
4 次に注目される伝説は、ラフ族の漁夫である。この話にも、神仙も竜宮も登場しない。
4 次に注目される伝説は、ラフ族の漁夫である。この話にも、神仙も竜宮も登場しない。
5 さらにトウチャ族の竜宮伝説が注目される。この話には、日本の「海幸山幸神話」が浦島伝説と習合している。
6 全体から、神仙、竜宮、竜女、玉手箱などの意味が明らかになり、浦島伝説の原型が浮かびあがってくる。
中国南部、ことに長江以南は、沼地や河川の多い土地である。ここで数々の水界訪問譚や水界報恩譚が生まれた。それらの原型は、漁業や農業で生活する人々が水界から恩恵を受ける素朴な話であり、北方で広まった道教の神仙思想や竜信仰は、のちに加わった要素であった。しかし、日本の浦島伝説が保持する竜宮、亀、玉手箱、さらに海幸山幸神話の兄弟の争い、釣針、竜女との結婚、潮満つ玉・潮干る玉などの諸要素の原型はすべて、すでに中国南部の水界訪問譚にそなわっていた。
中国南部の水界訪問譚は、海、沼、河川の多い類似の環境の東南アジア、朝鮮、日本にも広まっていった。日本の伝承と東南アジアの伝承が似るのはそのためである。
なかには、源流地の中国南部で失われたか、存在が不明になり、東南アジアと日本にだけ類似の信仰や伝承が残り、日本は東南アジアの影響を受けたと主張されてきた信仰や伝承がある。オナリ神信仰や仮面来訪神がその代表で、海幸山幸神話もそれに加えられる。
「浦島太郎」の昔話からも日本文化の多様性が明らかになり、ことに中国南部の少数民族との類似性がはっきりと見えてくる。
日本国家の誕生と永続
―伊勢・出雲・三輪三社の神話に探るー(11)
Ⅹ 日本国永続の理由
1 天皇が分かれば日本が分かる
天皇は、日本国憲法第一条に「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」と定められている。
「象徴」は、眼に見えないものを眼に見えるようにすることである。私流にことばを換えれば、日本人と日本国家の本質を天皇がご一身に体現されているということになる。時間と空間の広がりがあって、全体像をとらえきれない日本人と日本国家が、天皇を見つめれば理解できる。この節のタイトルを「天皇が分かれば日本が分かる」とした理由である。
天皇については、自由に論じることができない時代が長くつづいた。明治二十二年(一八八九)に発布された戦前の大日本帝国憲法の時代である。第二次世界大戦が終わって新しい日本国憲法が施行され、言論の自由は拡大したが、しかし、天皇について何をいってもよいということではない。おのずから節度の求められることはいうまでもない。
しかし、日本人と日本国家について考えようとするとき、天皇ぬきに論を組みたてることは不可能である。
昭和初年代、日本が帝国主義の道を歩みはじめていたころ、民俗学の樹立をはかっていた柳田国男は、その研究の対象を国内に限り、一国民俗学を提唱し、海外調査、海外との比較という方法を弟子たちにもきびしく禁じた。その理由を柳田は、世界民俗学に向かうには材料がそろっておらず時期尚早であると説明していたが( 「民間伝承論」『柳田国男全集二八』一九九一年)、事実は、天皇家の由来にふれることを恐れたためであった。
そのことによって、柳田は、漂泊民、非稲作民、被差別民などの重要問題にふれることもできなくなり、日本と日本人の解明を目的としながら、大きな欠落をその学問に抱えこむことになったのである。
有史以前から、日本列島には多様な海外文化が流れつき、変容しながらも定着していった。海外との比較という視点なしに日本をあきらかにすることはできない。
つづく