思い出の一枚
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 江戸時代の礼儀式法小笠原流の作法を記したテキスト「小笠原百箇条」である。小笠原流は室町時代から江戸時代にかけて武家の礼儀作法の基本となったが、江戸時代には寺子屋などで「小笠原百箇条」がテキストに採用され子どもたちにも教えられた。

 小笠原流は「相手を大切に思う心を作法というかたちで表し、人間関係を円滑にする礼の道」を基本精神にうたう。

 この小笠原流の後継が江戸しぐさである。芝三光(1928年 - 1999年)が提唱し、NPO法人江戸しぐさが「江戸商人のリーダーたちが築き上げた、上に立つ者の行動哲学」と称して普及、振興を促進している礼儀作法である。

 後継者越川礼子は、1991年、芝三光を知って弟子入りし、芝が江戸時代のマナーとして提唱した「江戸しぐさ」を普及するための運動に従事した。

 えどしぐさの主要な具体例をあげる。
〇傘かしげ
雨の日に互いの傘を外側に傾け、ぬれないようにすれ違うこと。
〇肩引き
道を歩いて、人とすれ違うとき左肩を路肩に寄せて歩くこと。
〇時泥棒
断りなく相手を訪問し、または、約束の時間に遅れるなどで相手の時間を奪うのは重い罪(十両の罪)にあたる。
〇うかつあやまり
たとえば相手に自分の足が踏まれたときに、「すみません、こちらがうかつでした」と自分が謝ることで、その場の雰囲気をよく保つこと。
〇七三の道
道の真ん中を歩くのではなく、自分が歩くのは道の3割にして、残りの7割は緊急時などに備え他の人のためにあけておくこと。

 江戸しぐさを掲載した現代の道徳教科書は多い。
〇道徳教材(副読本)に掲載された例として 
小学校 
東京書籍『小学校道徳 6 明日をめざして』(2008・平成21年度までに採用)
学校図書『小学校道徳 かがやけ みらい』(2008・平成21年度までに採用)
文部科学省道徳教材『私たちの道徳』小学校5・6年生用(2014・平成26年度から採用
中学校 
日本標準『中学道徳副読本1年 みんなで生き方を考える道徳』(2008・平成21年度までに採用)
学研『中学生の道徳1年 かけがえのないきみだから』(2008・平成21年度までに採用)
日本文教出版『あすを生きる』(2008・平成21年度までに採用)
正進社『キラリ☆道徳』(2008・平成21年度までに採用)
〇文部科学省検定済教科書に掲載された例として、 
小学校 
啓林館『わくわく算数 6年生』(2015・平成27年度から採用)
中学校 
育鵬社『中学社会 あたらしいみんなの公民』(2012・平成24年度から採用)

 しかし、江戸しぐさには批判も噴出している。
 「江戸しぐさ」を初めて正面から批判した本が出た。歴史研究家の原田実『江戸しぐさの正体 教育をむしばむ偽りの伝統』(星海社新書、2014)・『江戸しぐさの終焉』星海社(星海社新書 、2016)、『オカルト化する日本の教育』(ちくま新書、2018年)などである。
 原田は「江戸しぐさ」を「実際の江戸時代の中で使えそうなものは皆無」と断言し、「現代人が現代人のためにつくったマナーとしか思えない」と否定する。

 原田氏は以下のように断言する。
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 「江戸しぐさ」が本格的に社会に知られるようになったのは、今世紀に入ってからです。「江戸しぐさ」伝承の語り部とされている越川禮子さんが2000年に講談社から出した本(商人道「江戸しぐさ」の知恵袋)がきっかけとなって、様々な学校の校長クラスに働きかけが行われた結果、あちこちの学校の道徳教育に採用され、さらに企業の社員研修などにも使われるようになりました。2004~5年に公共広告機構(AC)のテレビコマーシャルに採用されることで、一気にメジャーになり、普及していきました。2008年にはNPO法人「江戸しぐさ」という団体が設立され、そこで現在流通している「江戸しぐさ」の内容を管理するようになっています。  

 並行、先行する各分野の有識者の批判論を紹介する。
 日本近世史研究者で、江戸時代の町人文化に通じている立正大学非常勤講師の高尾善希は、江戸しぐさを「とんでもない話」とした上で、史実のごとく一般に広まってしまったことに対し、学術の立場からの反省の意を表している。 
 落語家の柳家三之助は、2014年(平成26年)9月12日に、Twitterにおいて「江戸しぐさなんてものがもしホントにあったら噺に出てこねえわけねえだろって、少し思ってた」と指摘した。 
 『三省堂国語辞典』編集委員の飯間浩明は、2015年(平成27年)4月17日にTwitterにおいて、2012年頃『三省堂国語辞典』においても「江戸しぐさ」を項目として立てようとしたが、その主張に信頼性は薄いと判断し、見送りになったと述べている。なお、その当時においては、ウィキペディアの当記事内容も、「江戸しぐさ」について肯定的であったという感想を述べている。 
 江戸文化研究家で、当時、法政大学総長の田中優子は、過去には江戸しぐさを肯定するような発言を行っていたが、2015年(平成27年)6月25日放送のTBSテレビ『NEWS23』において、江戸しぐさを「空想である」と否定した。 
 新潟青陵大学大学院教授の碓井真史は、江戸しぐさは専門家から見ればあまりにも馬鹿げており、反論しても研究論文にも学問的業績にもならない事に加え、エビデンスを重視せず団体の独自教義普及に依る何らかの利益供受者や、学術的常識に乏しい都市伝説の信奉者を納得させるのは困難を極めるため、2015年時点で学者による否定は、インタビューで「そんなことありませんね」と答える程度に留まっており、原田に代表されるような在野の人物が、使命感から虚偽性を暴く解説本を書いているというような状況であると述べている。 
 国際日本文化研究センター助教呉座勇一は、「江戸しぐさ」を偽史であると断定したうえで、従前は相手にする必要もなかった偽史・陰謀論がインターネット等により広まり、あたかも真実のように受け入れられる状況が現出しており、それが教育の場まで押し寄せようとしているが、歴史学者はもはやそれを看過すべきでないとのべている。また、歴史研究においてプロとアマを分かつものは、大学などの研究機関に籍を置いているかどうかはどうでもよく、大事なのは史料批判ができるか否かであり、原田実の『江戸しぐさの正体』については、この史料批判ができているものとして推奨している。

 原田氏の批判例として「傘かしげ」をとりあげる。 
 傘かしげ=傘をさして他人とぶつかりそうになった際、反対側に傘を反らして相手を濡らさないこと。 
 江戸時代の傘は現代の洋傘と異なる。そして江戸の街の構造上、反らすのは返って通行を妨害する。また江戸時代の傘は高級品で、江戸っ子は頭に装着する笠や蓑を使用する場合が多かった。
 「傘かしげ」に関しては、和傘と洋傘の構造の違いが一番大きいですね。和傘であれば、かしげるのではなく、すぼめる方が早い。江戸時代においては、傘は大きく広げるよりも、すぼめるように持つのが主流でした。浮世絵などで大きく開いているのは、本当に見栄をきるような、非日常的ポーズとして描かれているからです。実際に歩いている人を描いた当時の絵などを見ると、全部開ききらないように持っている人の方が多い。 
 また、江戸の家の造りというのは、路地に土間が面していて、大きく外にむけて開いている構造になっているんですよね。その構造のところで、傘かしげをやると、下手をすると、店頭や人の家の台所に水をぶちまけることになってしまう。そういうおかしさが「江戸しぐさ」には所々あるのです。 
 東京書籍の道徳教科書やACに取り上げられており、他の仕草と比べても知名度が高いと思われる。

 この批判に対する私の反論をあげる。まず、傘は江戸時代に普及していた。
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歌川広重「東海道五十三次之内 庄野」
突然の夕立に逃げ惑う旅人たち。慌てて破れ傘を広げる人。

傘張り職人も多くいた。『人倫訓蒙図会』元禄3年刊
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傘かしげもふつうに行なわれていた。長谷川雪旦画『江戸名所図会』寛政年間(1789ー1801)編
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『絵本江戸風俗往来』明治38刊行
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 このような批判に対する反例はほとんど全てに渡ってあげることができる。
 江戸しぐさの母胎は小笠原流礼法であった。小笠原流礼法が民間に広まったきっかけは、江戸時代初期、小笠原流を学んだ水島卜也が江戸に小笠原流礼法の私塾を開いたことにある。水島は将軍・徳川綱吉の子、徳川徳松の髪置の儀に白髪を調進して有名となり、多数の門人を抱えた。この結果、水島派の小笠原流礼法が全国に広まった。
 出版物としても『小笠原流躾方』や『小笠原百箇条』などのタイトルで、主に私塾や寺子屋などでマナーの教科書として使われる往来物として、一ジャンルをなした。代表的なものとして、『小笠原百箇条』の名で、「一、人前で楊枝を使ひ候事(人の前で楊枝を使って歯の掃除をするのはマナーが悪い)」など、人前で守るべき礼儀を100個箇条書きにしたものがある。国立国会図書館に収蔵されているもっとも古い版は、寛永9年(1632年)の版であり、この形式の物は江戸時代の初期から末期に至るまで出版されている。

 明治時代に芝三光が理論化し、後継者越川礼子がのちに精密化した作法「江戸しぐさ」は固有名詞としては江戸時代に存在しなかった。
 しかし、江戸しぐさが表現している江戸期の日本人の生き方や作法は、地母を中心の信仰対象として多神教社会を生きて、恥の文化を形成した日本人の伝統的な社会や文化を反映していることは確かである。
 明治以降に、近代・現代人が日本の伝統を反省し、考察して組み立てた論が江戸しぐさである。



日本国家の誕生と永続
―伊勢・出雲・三輪三社の神話に探るー(12)
  Ⅹ  日本国永続の理由
 1 天皇が分かれば日本が分かる
 天皇は何時誕生したのか。
天皇の誕生の時代は、議論があるが、天皇をアマテラスの後裔とする神話が確立したときをもって、天皇の誕生とする見解が有力である。遅くともアマテラス神話を体系化した『古事記』( 七一二成立)や『日本書紀』( 七二〇成立)成立の八世紀までには天皇は誕生していた。
 日本では推古一六( 六〇八)に隋の皇帝に送った国書にある「東天皇」が天皇という名称の早い例。現在では、天皇という名称の誕生は、七世紀末の持統・天武両朝とみる説が有力である(『日本史辞典』角川書店、『日本歴史大事典』小学館)。
 天皇という用語の確立期はともかくとして、私は日本国家の成立はそれより遡る崇神天皇の時代と考えている。その理由については、前章の「1 天皇と日本国家の誕生」ですでに説明した。その時期は、箸墓古墳の築造者であることを考慮して三世紀後半乃至四世紀前半と考えている。

 2 天皇制永続論
 なぜ日本の天皇が永続したのか、という問いは、天皇制について考察する学問、政治学、歴史学、神話学、民俗学などがひとしく関心を示してきた問題であった。それだけに、これまでいくつかの解答が出されてきている。現在の研究状況を確認するために過去に提出された主要な解答を整理してみよう。

A 虚政=君臨すれども統治せず
 
 次のような見解である。

 日本の歴史における天皇は、祭祀機能を固有のものとしてのこしながら、他方において実際には、権力そのものの運営や行使には関係せず、政治決定は下部の統治機関にまかせて、原則としては、統治せざる君臨者として、国家の頂点にあるかのような役割をはたしてきた。それは、日本の天皇が、「君臨すれども統治せず」の方式をつらぬいてきたからであった。べつのことばをもってすれば実政を行なわず、実際の政治決定は、その下部機関にゆだねる虚政にほかならなかったということである。天皇は、国家の頂点にあったままで、その実権は、ときには皇太子の執政にうつっていたり、太政官のそれにあったり、藤原の摂関時代や鎌倉幕府、江戸幕府のばあいなどは、実際の政治権力は天皇家以外のほかの家系のものににぎられていた。         
 この考えは、フランスの文芸評論家ロラン・バルトの『表徴の帝国』( 一九七〇年)の「空虚の中心」などにはじまって、細部の論の立て方は異なっても、天皇家の特質を論じる研究者の多くが採用している説である。右の引用は、中村哲氏『宇宙神話と君主権力の起源』(法政大学出版局、二〇〇一年)の「第五章 君主虚政と農耕祭祀」によっている。
 一九八二年に発表されて、画期的な日本文化論として評判を呼んだ心理学者河合隼雄氏の『中空構造日本の深層』(中央公論社)で展開されている天皇論も、また、このAに含めて考えることができる。「キリスト教神話では、中心に存在する唯一者の権威、あるいは力によってすべてが統合される構造をもっている。統合によらず均衡に頼る日本のモデルでは、中心は必ずしも力をもつことを要せず、うまく中心的な位置を占めることによって、全体のバランスを保つのである。このような西洋と日本のモデルの差は、両者の比較において、日本人の心性のみでなく、政治、宗教、社会などの状態を考える上で適切な示唆を与えてくれる」。
 このような根本則のうえに、天皇制の特質について次のようにのべている。

 中空構造は中心への侵入を許しやすいのが欠点であると述べた。この欠点をカバーする方法のひとつとして、中心となるものは存在するが、それはまったく力を持たないというシステムが考えられる。つまり、中心、あるいは第一人者は空性の体現者として存在し、無用な侵入者に対しては、周囲の者がその中心を擁して戦うのである。このとき、その中心は極めて強力なように見えるが、それ自身は力を持たないところが特徴である。日本の天皇制をこのような存在として見ると、その在り方を、日本人の心性と結びつけてよく理解することができるように思う。歴史をふりかえってみると、天皇は第一人者ではあるが、権力者ではない、という不思議な在り様が、日本全体の平和の維持にうまく作用してきていることが認められるのである。天皇は中心に存在するものとして権力者であるように錯覚されたり、権力者であるべきだと考えられたりしたこともあるが、それは多くの場合、日本の平和を乱すか、乱れた平和を回復するための止むを得ざる措置としてとられたことが多い。
  
 河合氏は心理学者であるが、文化人類学的方法を中心にすえて、政治学的考察を組みあわせたすぐれた論である。しかし、私が前著『日本王権神話と中国南方神話』(角川選書)及び本書であきらかにしようとしていたことは、なぜこのような虚政、中空構造が日本の王権の基本構造として形成されたのかという疑問である。在り方を提示するだけではなく、その理由を考えようとしていたのである。さらに代表的な見方の紹介を続ける。
                  つづく