思い出の一枚

私が作成したアジアの長江流域稲作遺跡である。私の論文「中国江南の遺跡と縄文・弥生文化」(『日本人はるかな旅4』NHk出版、2001年)に発表した。編集部の意向で起源地二か所は除いている。

アジアの稲の起源地は、中国の長江中流域と決定していた。1995年に湖南省玉蟾岩遺跡から1万2千年前の栽培稲の稲籾が発見され、すこし遅れて隣接する江西省仙人洞遺跡からも1万2千年前の栽培稲が発見された。
前掲の図版は、日本へ稲作の来た道。私の論文と同じ書に掲載された浦林竜太「イネ、知られざる1万年の旅」。
最近、「弥生人と異なる古墳人の故郷」というテーマで「朝日新聞」2021・9・18朝刊に以下の記事と図が報じられた。

「金沢大・鳥取大など研究チームは、約9千年前の縄文人や約千五百年前の古墳人など計12体のDNAを解読。すでに解読ずみの弥生人2体のデータなどと比較した。その結果、弥生人は中国東北部の遼河流域など北東アジアで多く見られる遺伝的な特徴を持ち、一方、古墳人は、弥生人が持っていない東アジア人に多く見られる特徴を持っていた。」
この記事の古墳人は弥生人と異なる故郷という結論は貴重である。しかし、日本に稲作をもたらした弥生人が黄河より北方の北東アジア集団であり、巨大古墳を築造した古墳人が東アジア集団とは、大きな疑問がある。逆ではないか。
日本の古墳時代の始まりとなった四隅突出型墳墓は古代の出雲地方を代表する墳墓の型式である。紀元前一世紀末に広島県北部で始まって山陰沿岸から北陸へと分布を広げ、有力首長の墓となったという。『日本歴史大事典』小学館より。
ことに巨大な墳丘墓は出雲を中心に山陰部に広がった。まさに大和政権の敵対勢力であった出雲勢力の存在をはっきりと示す古墳型式であった。特に注目されるのは前方後円墳の出現により姿を消したという事実である。
写真は島根県出雲市大津町に復元された大型四隅突出型墳丘墓の西谷墳墓

他方、前方後円墳は古墳時代を代表する古墳形式で、円形の墳丘に方形の墳丘を連接させた形態のもの……他の形態の古墳に比べて圧倒的に大型のものが多く、日本の巨大古墳はすべて前方後円墳であることからもわかるように、古墳時代を象徴する記念物であり、この墳形の確立こそ古墳時代の指標である。古墳の格式としては最高位に位置付けられる形態だったと考えられ、前方後円墳の分布は、各時期、各地域の政治状況を反映する。およそ、三世紀中頃ないし後半から六世紀末前後まで、岩手県南部から鹿児島県に至る本州列島の各地で、大小さまざまのものが盛んにつくられた。現在、約四千基の前方後円墳が確認されているが、巨大なものは近畿地方に集中しており、数の上では関東地方東部・北部に多く分布する…… 『日本歴史大事典』小学館より
奈良県桜井市の茶臼山古墳 3世紀中葉から4世紀中頃までの大王墓

前方後円墳は前方後方墳(四隅突出型古墳)を基に造られた。私がそのように判断する根拠は、以下の通りである。
第一に前方後方墳の古さと広がり。
第二に前方後円墳に顕著な中国の天円思想の影響。
第三に前方後円墳は実は前円後方墳であること。中心的な埋蔵施設は必ず後円部につくられ、あきらかに「前方後円」ではなく、「前円後方」なのである。同様に、前方後方墳も埋蔵施設は前方にある。
第四に両墳丘の形態の類似。
大和王権は中国大陸の制度や思想に学んで、日本の国家体制を整備していった。しかし、基層には日本の伝統をしっかりと据えていた。中国の天円信仰を取り込んで前方後円墳を創り出したときに利用した墳墓型式が前方後方墳であった。出雲は大和の統治下に入り、墳墓型式も前方後円墳となったが、しかし、伝統的な四隅突出墳や前方後方墳を絶滅させることはなかった。
出雲地方にその変化が明瞭に見られるように、日本の首長の墓は本来は方形であった。そこへ大和を中心に天円の思想が摂取され、前方後円(前円後方)墳が優勢となった。しかし、アマテラス信仰に見られるように、日本人は天の信仰が伝来しても、大地の信仰を失うことなく、墳丘の型式も方形重視にもどっていったのである。

大和桜井を中心に覇権を拡大していった崇神天皇と深い関わりを持つ最初期の前方後円墳が前掲写真の箸墓古墳である。『日本書紀』崇神紀十年の記事に、ヤマトモモソヒメが亡くなったとき、奈良県桜井市に墓が造られ、箸墓と称したとある。『日本歴史大事典』には次のように説明されている。
奈良県桜井石箸中にある古墳の前期初頭の大型前方後円墳で、墳長二八〇メートル、後円部径一五五メートル、前方部長一二五メートル。現在は宮内庁が倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の大市墓として管理している……本古墳は纏向遺跡の東南部に位置し、遺跡と被葬者との関係をうかがわせる。墳丘からの出土品により大型前方後円墳の持つ数々の要素を備えた最古の古墳とされ、以後、継続する大王墓の先駆といえよう。
箸墓古墳は日本最古の前方後円墳とされ、その成立期は紀元三世紀ごろとする説がある。被葬者には邪馬台国の卑弥呼とする論者もいる。それらの説の当否はともかくとして、私が注目したいのは崇神王朝との関係である。『日本書紀』が記すように崇神天皇が築造者であり、その場所が大和桜井であること、日本最古の前方後円墳であることは、崇神天皇を日本最初の天皇と考える私にとって、きわめて貴重な考古遺跡である。
崇神天皇の御代に起こった出雲大社の主神の交替はこの墳丘墓の型式の前方後方から前円後方への変化と対応している。出雲は長く蛇神の出雲大神を主神としていたが、大和王権はそこへ三輪の蛇神の大国主を送りこんだ。しかし、大国主は故郷の三輪へもどることを望み、大和王権はその願いを入れて大国主を三輪にもどし、出雲を出雲大神にゆだねた。
神話で有名なスサノオの八俣大蛇退治はこの史実と関わる。スサノオは大和政権の先兵として出雲の制圧に努めた神であった。蛇神スサノオによる出雲の蛇神制圧の神話化が八岐大蛇退治である。
古墳の型式の変化にも、はっきりと神と人の双方を統治しなければ政権の統治はありえないという、古代の政治思想が表現されている。「墳丘の築造には延べ640万人以上の労働力が必要とされる」(大林組『季刊大林20』1985年)。古墳築造は政治勢力の誇示でもあった。
中国少数民族の葬方は伝統も現代も小さな土葬が中心であり、日本の弥生時代も土葬が中心であった。次の写真は貴州省安順市郊外市民墓地。

次は弥生時代の福岡県糸島市の伊都国王墓平原(ひらばる)遺跡である。

弥生時代は日本に水田稲作が伝来した時代であった。稲作の起源地は長江以南と決定している。日本の弥生人は長江以南、東アジアから渡来した越人、倭人とよばれた人々であった。この人たちの葬法は土葬を中心とする小さな墓で、巨大古墳を造る風習はない。その弥生人の墓式の習俗は現代日本人の伝統的な墓に継承されている。巨大古墳は、王国が興亡をくり返した中国北方の王族の習俗であった。
このようなアジア古代史の常識から判断して、前掲朝日新聞の弥生人は中国北方の北東アジア集団、古墳人は東アジア集団とした記事はそのままには納得できない。
日本の巨大古墳文化は中国の北方習俗が、先行した南部の弥生文化と重なった結果であった。
日本国家の誕生と永続
―伊勢・出雲・三輪三社の神話に探るー(14)
Ⅹ 日本国永続の理由
2 天皇制永続論
Ⅽ 宗教性と政治性の交替
天皇に宗教的力を求めることができるのは、奈良時代ぐらいまでであって、平安時代以降、天皇は宗教性をうしなうか、希薄化させていったが、それでも天皇が持続することができたのは、時の権力と天皇の権威とのあいだに複雑な力学がはたらいた結果であったという主張である。実証的な学風の歴史学者や政治学者に多い見方で、A・Bの両説がいわば一元的に天皇の永続を説明しようとしているのに対し、宗教性と政治性の両者を折衷した見方ともいえる。
代表的な見解を次に紹介する。
平安時代に入ると、天皇の宗教的な力、あるいは氏姓制を支えた神話的イデオロギーがうしなわれていき、かわって礼が導入され天皇制の唐風化が進む。朝賀も節会も中国的儀礼を導入して整備される。天皇の宗教的な力は、元日節会での被(ふすま)の支給としてのこされるだけで、おそらく五位以上官人全員を人格的に支配することはなくなり、官僚制は、天皇の力と関係なく自律的に機能するようになる。そして天皇は子どもでもよくなるのである。
歴史学者の大津透氏が、「『日本』の成立と天皇の役割」(『日本の歴史8 古代天皇制を考える』講談社、二〇〇一年)でのべている説である。この説は氏の著書である『古代の天皇制』(岩波書店、一九九九年)のなかの「摂関政治における天皇」という章の論旨のわかりやすい解説になっている。後者で氏は次のようにのべていた。
幼帝の登場については、本書でのべてきたような天皇中心の神話的秩序、あるいは氏による天皇への奉仕と、即位式や朝賀における即位の承認などの相互的確認がなくなっていき、天皇位が制度化され、譲位ののち即時に剣璽渡御による皇位の継承がなされ、さらに天皇の人格的支配に依存することなく官僚制が運用されるようになったことが、その前提であろう。逆説的だが、律令制の展開が、天皇の存在を小さくしていったのである。天皇に一定の宗教的力などが求められなくなり、前帝が定めた皇太子が年齢にかかわらず即位することとなり、子どもでもよくなったということだろう。
大津氏は、ここでは平安時代を主として論じている。おなじ歴史学者の今谷明氏は、室町時代の天皇について、より明確な口調で、宗教的な権威をうしなった天皇が周囲の思惑のなかで政治的な権威として復活してゆく様子を、「これからの天皇制研究」(『天皇家はなぜ続いたか』新人物往来社、一九九一年)で次のようにのべている。
十五世紀以降の現実の天皇の権威に宗教性はない。だからこそ、大嘗祭を挙行しない天皇が連綿として続き、しかも天皇としての権威を全うし得たのである。祭祀王が存在価値ならば、どうして大嘗祭未遂天皇の存在が許されようか。大嘗会だけではない。伊勢神宮の造営も十五世紀に入って廃絶し、宮中の節会儀礼も殆んど実施不能に陥っている。そのような満身創痍の天皇にも、宿老の目から見れば利用価値はあるのである。その最たるものが治罰の綸旨であり、栄典としての官位の任免であった。
このような今谷氏の説は、じつは、一九九〇年に初版の出された『室町の王権』(中公新書)のなかでもっとラジカルに主張されていた。
ここで繰り返し強調しておきたいことは、義満が奪った祭祀権だけは、本格的に復活することはなく、その後の天皇の権威復活の上で、ほとんど大きな役割を果たしていないことである。このことは、王朝祭祀儀礼が大半廃絶した応仁の乱―戦国期に、かえって天皇の権威が復活上昇している事実から裏付けられる。民俗学者・文化人類学者、一部の歴史家から唱えられる〈司祭王としての存続〉〈祭祀王権としての復活〉説は、まったく事実に合致しない一種の“共同幻想”というほかない見解である。わが国中世の祭祀儀礼は、相当の経済力の裏付けを必要とし、天皇家が経済力を失った段階で、自動的に消滅せざるを得ない構造になっているのである。
つづく