思い出の一枚

完成した江戸の地勢である。江戸の地勢は四神相応である。『柳営秘鑑』(江戸幕府故実書。
幕臣菊池弥門著。寛保3年成立)によれば、「風此江戸城、天下の城の格に叶ひ、其土地は四神相応に相叶ゑり」とある。
四神相応の江戸の町造り 玄武・山 青竜・川 朱雀・海 白虎・道

四神は東西南北を象徴する四種の神獣である。北玄武(亀と蛇) 、南に朱雀、東に青竜、西に白虎の四方角の守護神であった。瓦などの遺品、『礼記』『淮南子』その他の文献により紀元前後各3世紀の漢代には成立していた思想であった。中央竜穴と合わせた五行思想に由来する。
次は竜穴と四神を融合させた中国清代の都城。堀込憲二「風水思想と中国の都市」から。

日本高松塚古墳の壁画四神図

風水思想は現世の人間と死者の住所に適用される。墓地の平安は生者の平安でもある。奈良明日香村の6世紀後半から7世紀前半のキトラ古墳、7世紀末から8世紀初頭の築造と推定される同じ明日香村の高松塚古墳(上図)の壁画には、日本の四神の早い例を見ることができる。しかし、日本の風水観の根本は《地と水》であった。
7世紀日本飛鳥浄御原宮 背後の神奈備山などの山並みと飛鳥川・飛鳥池などに囲まれた地。日本の山は大地の連続で天に通じる宇宙山ではない。

完成した江戸 東海・甲州・中仙・奥州日光へ向かう街道 武家地 町人地 寺社地の区分

のの字の江戸造り 江戸から日本全国へ道が続く

平安京への遷都
『日本紀略』延暦13年794年桓武天皇詔「この国、山河襟帯(きんたい)、自然と城をなす。この形勝によりて新号を期すべし。よろしく山背国を改めて山城国となすべし…号して平安京という。」
『日本紀略』延暦13年794年桓武天皇詔「この国、山河襟帯(きんたい)、自然と城をなす。この形勝によりて新号を期すべし。よろしく山背国を改めて山城国となすべし…号して平安京という。」
「山河襟帯」とは、山や丘(北山、東山、西山など)が襟のように、鴨川、桂川、宇治川、木津川の河川が帯のように囲む地勢をいう。日本の《地水》の風水観を表現している。
日本古代神社の風水は地水 伊勢神宮内宮

古代の神社はすべて襟(山)帯(水)の地である。四神相応ではなく地水思想で選択されたことが明白である。
日本は中心と外部は交流し境界は曖昧であった。全方位防御の思想を中国から継承した日本の陰陽師たちが、中国の防御と日本の交流を融合させて設定した理論空間が鬼門・裏鬼門であり、理論時間が節分であった。
モノで邪を追う中国の方術、人が神仏の力を借りる中国の儺が、日本では空間(鬼門)、時(正月・節分)を限定して継承された。日本の風水観の根本は大地の《地水》である。
日本の山は大地の連続で、天に通じる宇宙山ではない。
日本の四神思想は中国から伝来した。しかし、北に山、南に池、東に河、西に大道の実態「四神相応」論は山城国の平安京の地勢に合わせて日本で生まれた。中国四神論は名目としては五行説によって四方に神獣を配するが、実態は天地水の気の重視であり、宇宙山を経由した天の気が大地を流れて流出する地と水を尊重する。
背後に宇宙山を想定しない日本の風水思想に天の気という意識はなく、代わって他地域と交流する大道を重視した。
そこには、日本独自の大地の信仰があり、中国風水の防御重視に対する日本の交流重視という本質的違いがある。
中国では自分たちの熟知・管理する中心(中華・風水の地)の外界はすべて敵であり妖異の空間であった。防御は全方位に施されなければならず、また管理する中心すらも絶えず防御・統御下におかなければならなかった。
中国の風水は宇宙の統合理論であったがすぐれて政治(防御)の思想でもあった。
明治の光と影―日本の近代 (30)
Ⅶ 能・狂言の近代
3 近代への対応
五番組織の本質は最初に別格の祖先神を招き(翁)、次に天地の各様の神を招き(脇)、神と人がさまざまに交流し(二番・三番・四番)、最後に悪神を排除し(鬼)、迎えた神を送り出して終わる(半能)という、当時の日本の祭り一般の構造に従っている。
中世の日本の祭りの一例として宮崎県西都(さいと)市銀(しろ)鏡(み)神楽をとりあげて比較してみよう。
米良神楽 (めらかぐら)ともよばれるこの祭りは次のような順序で進行する。
1 舞所の清め
2 日向地方の大神(鵜戸鬼神)の来臨
3 本社・末社の神々(西ノ宮大明神、宿神三宝荒神、 若男大明神、六社稲荷大明神、七
社稲荷大明神)の来臨
社稲荷大明神)の来臨
4 荒ぶる神(柴荒神、綱荒神、衣笠荒神)の来臨と沈静
5 岩戸神楽(手力男神、戸被明神)・天照大神の出現
6 田楽系のもどき芸・豊饒祈願(室の神、子すかし、獅子舞)
7 ことほぎの神(白蓋鬼神、笠取鬼神)の来臨
8 狩法神事
9 神送り
2から7までは、神面に表現された神格による分類である。しかもこの神面の直前には仮面をつけない直面の舞が演じられる。その直面の舞は地舞、つまり神をむかえるための「招神」である。
ここに仮面と直面のもっとも原型的な本質が表現されている。≪直面は人間を表現し、仮面は神を表現する≫という対比である。銀鏡神楽は、近世に成立した出雲系神楽とは異なる古体の神楽で、成立は能・狂言と同時期の中世にさかのぼる。
その特色は、
直面は神主らの神招き
仮面は神を表現する
始めに日向地方の最高神鵜戸鬼神を招く
善神だけではなく荒神、悪神をも招き、善神の力を借りてなだめ、時には善神に変える
などとまとめることができる。
この本質は、能・狂言の本質と多くが共通している。つまり、能は、本来、祭り一般に通じる祭祀性を持っていた。この祭祀性が近代になってうしなわれていった。
近代の能楽上演例を検討してみる。
明治十一年青山御所英照皇太后御覧能番組
翁 養老(脇能) 間狂言
三本柱 小督(四番目能) 間狂言
棒しばり 道成寺(四・五番目能) 間狂言
花子 正尊 (四番目能) 間狂言
千切木 土蜘蛛(五番目能) 祝言(千秋楽)
明治十三年芝能楽堂能楽会式能
翁 高砂(脇能) 間狂言
末広 知章(二番目能) 間狂言
右近左近 葛城(四番目能) 間狂言
業平餅 烏帽子折(四番目能) 祝言
わずか二例であるが、伝統的な演能の方式が無くなっていることがあきらかである。最初に翁が上演されても五番組織の配列は守られていない。見所のある人気演目が自由に選択されている。最後は半能に代わり祝言が上演される場合が多い。
半能は脇能の後半を演じて舞台に迎えた神を送りだす意図を持っている。半能が上演されなくなったのは神迎え・神送りの祭祀性がうしなわれたためであり、最後を祝言で終わるのは、人間の娯楽性と祝福性を強めたためである。
つづく