思い出の一枚

歌舞伎役者四代目坂田藤十郎である。坂田家のお家狂言の作成で、この方の晩年にとくに交流が強まり、私には忘れることのできない役者さんである。藤十郎は芸談の中で呼吸について次のように語っていた。
「息をつめる、というのは一つのことを思いつめてセリフを言う、喜怒哀楽を整えて演技をする。そういうことではないかと思うのですよ」
息をとめるのとは違う?「結果としてとまっているかもしれませんが、技術として教えてもらうようなことではないのです。愛情なら愛情が先にあり、その人を思いつめている状態になる。それが大事。『曽根崎心中』のお初であれば、早く徳兵衛のところに行きたい、家を出たい。その気持ちがないと、ただ息をとめてもからっぽです」「朝日新聞夕刊」2014年8月18日
能の呼吸 26世家元 観世清和河寿芸談

能の「姨捨(おばすて)」のクライマックス、老女の亡霊が昔を懐かしみつつ夜明けを迎える場面の謡「秋よ友よと思い居れば夜もすでに白々と」の、「思い居れば」と「夜もすでに」の間は音が切れても息はつがない。月光から陽光に転じる鮮やかさを見せるために。
「ここで息をつぐと、不思議に観客には分かるんです」「朝日新聞夕刊」2014年8月20日。
日本芸能呼吸論の源型を能の世阿弥の芸論にうかがってみよう。
一調・二機・三声。調子をば機が持つなり。吹物の調子を音(ね)取りて、機に合はせすまして、目をふさぎて、息を内へ引きて、さて声を出だせば、声先(こわさき)調子の中より出づるなり。調子ばかりを音取りて、機にも合はずして声を出だせば、声を調子に合ふこと、左右なく無し。調子をば機に籠めて声を出だすがゆゑに、 一調・二機・三声とは定むるなり。(『花鏡』)
世阿弥のいう「息」は呼吸と考えることができる。「調」は楽器の笛の音調である。「機」とは何か。
機について能勢朝次氏は『世阿弥十六部集評釈』(岩波書店、昭和十五年)で、次のようにいう。「機は気である。それは吸ひこんで丹田に収めた息を、じっと保って、適当の発声の機会まで内に籠めてゐる気である。息と気合と機会との三つの要素に分かって考へることも出来る。」と説明している。
世阿弥の機は気であり、根底には息と気合と機会の三者が一つになっているという。
この説明からさらに疑問が生じる。世阿弥が「気」を避けて、「機」と表現した理由はなぜか。その伝書類に縦横に中国の演劇論や哲学を引用していた世阿弥が風水の気について知らなかったはずはない。彼にはその気を避ける理由があったのである。そこから、世阿弥の思索の過程、中国や朝鮮の芸能と日本の芸能の違いがはっきりみえてくる。
日本芸能人がいう「呼吸」「息」は個人の生理現象である。世阿弥が「機」ということばに籠めた「気」もこの息に通じる、個人が吸ったり吐いたりする空気である。
《しかし、中国や韓国の舞踊・武術でいう呼吸と気は日本とはまったく異なる。》
中国鳳仙功舞踊団 気の重視

中央歌舞団主演舞踏家大鳳真陽が1982年に創立した舞踊団。骨盤に重心を感じながら、尻と腰と腹の重心を合わせ、そこから上に伸びる体の軸を意識すると、体の内部に「気」が通る。大鳳真陽はバレエと気から自分でこの理論を発見。《三点一線天》のメソッドという。「鳳仙功」の「鳳」は、想像上の瑞鳥鳳凰。「仙」とは、不老不死の域に達した仙人のこと。そして「功」は、気功などの功で鍛錬の意味。
韓国金梅子舞踊団 呼吸と気の重視

金梅子(キム・メジャ)が1976年に創立した舞踊団。韓国舞踊独自の手と肩の動き。
金梅子のことば。「韓国の伝統的な思想から生まれてきた。韓国の家の屋根の先がみんな上に丸く向かっているように、手の先も、足先も上を向き、靴も先が上に向かっている。
それは循環をイメージしている。屋根の先が天を回って、地上に戻る。全部、球体として循環するという思想がある」。ここにいう、球体として循環するものは気である。
中国風水説の有機的大地観

中国風水説の根底には有機的大地観がある。中国医学では人体内に気のルートである経絡が走っていると考える。これが大地と結合し、擬似身体である大地の中に竜脈(山脈、地脈)という生気のルートを想定する。その生気は大源泉である西方の崑崙山を発し、北条・中条・南条の三大幹流を伝わって流れ下り、枝分かれして中国全土の隅々に行き渡る。
写真は中国風水説の根源青海省の崑崙山。実在かつ伝説の山である。
中国圏の気の文化の集大成は風水である。風水説は、狭義には、都市・寺院・住居・墓地などの立地選択の術。広義には、人間と環境・地形との良好な関係を追求するシステム、
または大地の宇宙論的解釈である。
風水の語は「気は風に乗らば則ち散じ、水に界さるれば則ち止まる。古人はこれを聚めて散ぜざらしめ、これを行かせて止まること有らしむ。故にこれを風水という。風水の法、水を得るを上となし、風を蔵するはこれに次ぐ」(3~5世紀晋代『葬書』)による。
中国的世界観の根本原理は《気》であり、呼吸は気を運ぶ風とされる。宇宙に充満するガス状の物質で分割できない。万物を形づくり生命・活力を与える(『管子』内業篇)。絶えず運動し、凝集すると物体が形成され、拡散すると物体が消滅する(『荘子』知北遊篇)。
天は軽い気、地は重い気がそれぞれ分かれてできた(『淮南子』天文訓)。星もまた気の英(エッセンス)である(『列子』天瑞篇)。季節の巡行も陰の気と陽の気の消長により、自然現象も気の運動である(『朱子語類』巻九十九)。大地の中も土や岩の空隙を気が走っていてそのコースを地脈という。
大地は地のエネルギーの満ちた生命体であり、人体の中にも気が流れ、そのルートが経絡である。
中国医学では病気は気の不調によると考えられ、「病は気から」という(『黄帝素問』学痛論篇)。道教では一日を生気と死気の時間帯に分け、生気の時にふかくゆるやかな呼吸を実践すれば、体内の気が入れ替わって不死の体になるという(『抱朴子』釈滞篇)。
気は神でもある 孔子

気は中国人の考える神の力でもある。弟子から鬼神とは何かと問われた孔子が次のように答えている(『礼記』祭義)。気とは神の盛りである。魄とは鬼(き)の盛りである。鬼と神を一つにすることがもっとも大切なのである。人は必ず死ぬ。死ねば必ず土に帰る。骨や肉は地の下に朽ちて、埋もれたままに野の土になる。気は天上に浮かび上がって神明となる。
しかし、日本の風水観の根本は《地水》である。
7世紀日本飛鳥浄御原宮 背後の神奈備山などの山並みと飛鳥川・飛鳥池などに囲まれた地。日本の山は大地の連続で天に通じる宇宙山ではない。

平安京への遷都について、『日本紀略』延暦13年794につぎのようにある。
桓武天皇詔「この国、山河襟帯(きんたい)、自然と城をなす。この形勝によりて新号を期すべし。よろしく山背国を改めて山城国となすべし…号して平安京という。
「山河襟帯」とは、山や丘(北山、東山、西山など)が襟のように、鴨川、桂川、宇治川、木津川の河川が帯のように囲む地勢をいう。日本の《地と水重視》の風水観を表現している。そこに天と気の観念はない。
日本の風水説の根本は大地の《地水》である。日本の山は大地の連続で、天に通じる宇宙山ではない。日本の四神思想は中国から伝来した。しかし、北に山、南に池、東に河、西に大道の「四神相応」論は山城国の平安京の地勢に合わせて日本で生まれた。
中国四神は主として墓地・隠宅の守護神であって、都市、陽宅、人体の風水は天地水の気の重視であり、宇宙山を経由した天の気が大地を流れて流出する地と水を尊重する。
背後に宇宙山を想定しない日本の風水思想に天の気という意識はなく、代わって四神や他地域と交流する大道を重視した。そこには、日本独自の大地の信仰と動物信仰があり、
中国風水の防御重視に対する日本の交流重視という本質的違いがある。
気とは天の神の働きである。中国や韓国の舞踊・武術は呼吸を通して天の神の活力を身体に呼びこむことにねらいがある。日本の芸能も究極は神との合一であるが、その神は地上の具象的・個別的な神々であって、普遍的な天空の気ではない。
世阿弥以降の日本の芸能者が気を個人の心の働きの意味に限定し、世阿弥が表記を機に変えた理由はその違いにある。
日本文化と中韓文化の根本の違いである。
明治の光と影―日本の近代 (32)
Ⅶ 能・狂言の近代
3 近代への対応
明治から大正にかけて制作された新作能へ、的確な批判をした人物がいた。高浜虚子である。みずからも「鉄門」という新作能を作成した俳人虚子は「作者の感情を文章のみによりて運ぶことを知って、舞や型によって運ぶことを忘れてゐる」(大正五年「新作能所感」)と批判した。そののちの作も含めて新作能全体にあてはまる批判である。
ここで新作能全体の傾向をまとめておこう。
1 約三百種を超える多種多様な新作が作成され上演された。
2 その内容は多様を極め、たとえば、時事・事件をテーマとした作に限っても、
日露戦争、大正天皇即位、関東大震災、第二次大戦、原爆、脳死・心臓移植、強制連行、
日露戦争、大正天皇即位、関東大震災、第二次大戦、原爆、脳死・心臓移植、強制連行、
環境破壊・水俣病と、新作能の内容だけで日本の近代の歴史がたどれるほどである。
3 演出には代表的能役者が関与し、古典的能の伝統に従った作がほとんどであるが、
なかには、能楽以外の楽器、大道具、小道具を援用したコラボレーションも多くみられ
る。
る。
4 新作能の作成に当たって、当事者に古典能の規範を重視する意識は希少である。
歌舞伎や文楽よりもはるかに自由である。
5 演能時間が長くなった。
この問題については、表章「演能所要時間の推移」(岩波講座『能・狂言1』)を参照した。
現在を一〇〇%として計算すると、演能に要する時間は、次のように推移した。室町時代 中期までは現在の半分以下、音阿弥の頃は四〇%前後、室町末期は六〇%。江戸時代 初期は七〇%、中期は八〇%、末期は九〇%となる。
また、室町中期の音阿弥を一〇〇%として計算すると、室町末期は一五〇%、江戸中期は二〇〇%、今は二四〇%。将来は三〇〇%に達するであろう。
このように江戸時代以降に時間が延びた理由は二つある。近代以前 舞台が三間四方に拡大し、式楽化した。近代以降 式楽から継承された古典演劇観の重視が時間を延長させた。
これまで、近代を迎えた古典芸能能・狂言の苦闘の歴史をみてきた。
先に「Ⅲ2 明治知識人の典型 坪内逍遥の苦悩」で、明治の知識人の近代受容態度を、邁進型、抵抗型、煩悶型に大別した。福沢諭吉、徳富蘇峰は邁進型、幸田露伴、永井荷風は抵抗型、そして夏目漱石は煩悶型の代表である。この三つのタイプが、入りまじり、もみあって、明治・大正の時代をうごかしていった。
古典芸能の近代受容態度も大きくこの三つに分類できる。芸能研究者、芝居小屋、狂言作者という三つの視点を用意し、その分析を通して、日本芸能史の近代化を探ってみた。
そこからみえてきたものは、古典芸能を支えてきた大地・女性・太陽という三つの信仰の弱体化、ときには死であった。しかし、新を受容して旧と融合させて調和を生むという日本人の本質は揺らいでいない。古典芸能が博物館入りしないで日常に生き続けているのはそのためである。
能・狂言ではどうか。さきの三つの類型を適用するなら、能・狂言の近代は、邁進型と抵抗型の二つの特色に分かれる。
能舞台を室内に入れて能楽堂とし、土間を桟敷席に、照明を自然光から電灯に改めた段階で能舞台を支えていた大地・女性・太陽の信仰は見うしなわれた。さらに、五段組織の上演法を崩し、新作能をコラボレーションの演出で生みだすなど、全体として近代化に向って進む邁進型の姿勢を見ることができる。
しかし、能楽堂でも三間四方・四本柱・高床式の様式を守り、大小鼓・笛太鼓の四拍子(しびょうし)の楽器を維持し、仮面を着帯、家元制度を保存するなど、抵抗型も健在である。抵抗型が頑として存在したからこそ他方で大胆に邁進型に向うことができたといえる。
強調すべきことは、主人公が神霊であり、人間界に束の間出現して交流し、またあの世に帰るという能の基本テーマが新作能でも守られていることである。
「新を受容して旧と融合させて調和を生むという日本人の本質」は
揺らいでいない。
つづく