思い出の一枚

図1



 台湾統治時代に日本人が台湾原住民の子供たちのために設置した小学校である。
 明治30年、 南部各地に警察派出所を設置したときに駐在員の余暇を利用して児童教育を担当させた。明治35年には、国語、農耕、牧畜、計算などの科目を設け、統一を計った。
図2

 明治41年には、教育基準、教育費用などを整備。昭和5年、児童教育所173箇所、就学児童六千七百名に達した。

台湾東勢郡の水田農耕
図3

 日本は、生産活動の指導も熱心に行なった。伝統的な焼畑切り替え畑農耕などから定地水田農耕に変わることは先祖の神霊の怒りがあるとして現地民の強い抵抗があった。
 しかし、結果が良好で従事者が増加していった。

 原住民地区にはいたるところに野生の桑が生えていた。日本人の指導で、養蚕に気候が適合しない土地でも養蚕の方法を改良することができた。結果、原住民の好戦の気風を変えていった。大正五年には日本政府当局は養蚕を奨励し、各地に養蚕指導センターを設立した。
 桑園の準備から始めて、養蚕、紡績を全面指導した。

東京で日本人に囲まれる観光団
図4


 日本政府は、原住民のために、台湾大都市、さらに海外や日本への観光を実施した。
 明治四十三年にはイギリスに旅行していた。判明している限りで、日本へは、明治三十年から昭和四年まで十回行なわれ、東京、大阪、長崎、神戸、名古屋など、大都市を見学していた。寺院参詣の人数の多さ、軍隊の武器の多量、地雷爆発の強大、自動車の便利、電車の迅速、電灯の色彩の変化、飛行機の不思議、織物工場の規模、学校教育の厳格などに、賛嘆の感想がのちに寄せられた。
 彼らは内地を観光し、日本帝国の兵備の強大さに驚き、日本とは絶対に敵対してはならないと覚った。さらに、原住民は、日本を完全に見てまわるには五、六年の時間が必要と語った。また、無事に帰宅したのち、遠近の一族や婦女児童たちが、今回の観光に参加できなかったことは残念だったと語ったという。(内地観光統率者藤原技師報告文「原住民観光日誌」)

阿里山山中を走る日本人敷設の鉄道
図5

 ツオウ族の伝統的な頭目・家長制度、切り替え畑、狩猟などの生産形態が日本統治によって、自助会組織、水田耕作、土地私有、狩猟場の制限など大きな変化を受けた。ツオウ族の指導者層は頭目から自助会長、青年団長、ツオウ族巡査に変わった。その学歴は、士官学校、師範学校、嘉義農林学校、農業講習所など、日本が中堅幹部養成のために設けた施設の卒業生であった。
 この日本の教育が彼らの自立心を高め、戦前の日本への批判的共感、戦後の漢族の国民党支配への抵抗心を強めた。(参照、松田吉郎「阿里山ツオウ族の戦前・戦後」平成11年)

台湾原住民創世神話に登場する日本人
図6

 台湾先住民は自分たちこそ本来の居住民であるという誇りをこめて原住民と自称する。2008年、政府により14種族が認定された。すべてが山中、海岸、島などの僻地に住む。

 彼らのなかで日本人を祖先とする創世神話を伝える種族がいる。なお、日本統治を民進党(台湾内地人の本省人)は日治、国民党(大陸から渡来の外省人)は日拠という。

鄒族の原郷玉山 旧称新高山 台湾中央部に聳える4000mの最高峰
図7


 鄒族創世神話の日本人。
 太古ハモという神が天上から新高山(現在の玉山)に降られ人間を造り給うた。繁殖した人間は各々美しい土地を求めて離散したが大洪水に遭って再び新高山に集まってきた。洪水が引いて人々は麓へ別れていった。我社の祖先は三つに別れた。当時嘉義地方の樹木が生え茂っていたところでマーヤ(日本人)と別れた。マーヤは北進していった。昔別れたマーヤと今の日本人は服装がまったく違うので、他国人かと疑ったが、容貌、体格が我らとすこしも変わらないので、真のマーヤであることを知り、懐かしさにたえない(佐山融吉他『生蛮伝説集』大正12年・1923、『原語による台湾高砂族伝説集』昭和10年・1935年)。

 鄒族創世神話別型。
 太古、鄒族はマアラア(日本人)、プクン族とともに新高山(玉山)の頂に住んでいた。当時は四面海で魚や獣を捕って生活していた。水が引いたとき動物が尽きたので弓を三つに折って決め、上部にマアラア(日本人)、中部にプクン、下部に鄒族と住み分けた。間もなくマアラアは山を降り、動物のいない所に移動し、食物に困って種々の物を発明した(『蕃族調査報告書』大正7年・『生蛮伝説集』大正12年・1923年)。

 マーヤまたはマアラアとして日本人が登場する。このことばは本来は異人または幽霊の意味ともいうが、ほとんどは日本人をさしている。洪水で山の上に同居していたが水が引いたので下山し、住む場所を異にした。日本人は東方に移住したとも、あるいは食物のない土地に移住し、種々の食物を発明したともいう。
 遠い土地に別れて住んだことで異人、しかも、むかしの記憶にのこる兄弟であったことで幽霊(祖霊)として、このことばで表現された。

 このように日本人が同胞として登場する創世神話は原住民社会に数多く存在する。
 鄒族創世神話別型 日本人と漢人。
 遠い時代のこと、ハモ天神が楓の木を揺すられた。楓の木の実が地上に落ちて人となった。これが鄒とマーヤ族(日本人)の祖先であった。のちにハモ天神は茄苳(カタン)の木を揺すられた。その実が地上に落ちて人となった。これが漢人の祖先であった(浦忠成『阿里山鄒族口伝故事』1992年)。
 ハモは鄒族の最高神。漢人は鄒族や日本人とは異なる種族として伝えられる。

泰雅族の入墨と漢族
図8

 往古、我らの祖先はプンシャヤンと称するところにありしが、その後ハプンボーロックに到り、カーシー(平地漢語系台湾人)と別れたり。カーシーは我らを欺きて多くの人員を伴い行きたれば、我らは怒りて、それより彼らを馘首する。その時初めて刺墨を発明し、漢族と区別せんがために額に入墨する。漢族は山を降りて平地に出しも、我らはなお山にとどまる。(『蕃族調査報告書』大正7年・ 1918年)

 台湾人はなぜそんなに日本が好きなのか 
 映画『多桑』
図9

 1994・平成6年の台湾映画『多桑』。監督呉念真が自分の父をモデルにした作品。
 主人公の父多桑(父さん)は日本統治時代に日本語教育を受けた日本びいき。金鉱の鉱夫として妻子を養う。国民党時代になっても日本語を使い、日本製品を愛し、友人と日本へ行き、富士山と皇居を見ることが最大の夢。しかし、鉱山は閉山され、生活は苦しくなり、時代にとり残されていく。自身も肺病となるが夢を捨てきれない。一人で訪日しようとするが出発4日前に病没した。
 時代は移って1991年、主人公は父の遺骨を抱いて日本へ行き、富士山と皇居を見せる。
 
  台湾人の親日感情を戦後の大陸系国民党への反発に由来するとし、
日本の近代化政策の意義・役割を否定している説が幅を利かしている。大方の日本の研究者の論説も含めてほぼ現在の最有力説となっている。
 しかし、日本人が同胞として登場し漢族が対立者として登場する原住民神話は、いずれも日本の統治時代に採録、または成立していた神話であった。
 国民党が大陸から渡ってきた1949年以前にはすでに原住民のあいだに語られていた。いわゆる外省人とはまったく無縁の神話である。

 日本の統治時代に日本が行なった近代化政策は台湾の原住民に好意を持って受け入れられた。この史実を、我々日本人はしっかりと、誇りと自信をもって認識しておくべきなのである。



      明治の光と影―日本の近代 (33)
        Ⅶ 文楽の近代
Ⅰ 芝居から劇場へ
 天保十三年(一八四二)の天保の改革で宮地芝居が禁止され、人形芝居は壊滅的打撃を受けたが、明治五年(一八七二)、新政府の許可で松島文楽座が建てられた。
 神社境内を意味する宮地は、無税地、寺社奉行の管轄で町奉行の支配を受けない、などの理由のほかに、人形芸を神に奉納する意識も働いていた。
 明治十七年(一八八四)には非文楽系勢力を結集した彦六座が博労町稲荷(難波神社)に開場、文楽座も御霊神社境内に移転した。
 文楽系には二世竹本越路太夫、六世豊沢広助、初世吉田玉造、彦六系には二世豊沢団平を中心に三世竹本大隅太夫らの名人がそろい、明治期の人形浄瑠璃黄金時代を出現した。
 大阪難波神社と、境内の西側にある博労町稲荷神社。船場の商家を中心に信仰を集める。
彦六座が明治十七年に開場。
図10図11

 御霊文楽座の表には絵看板があり、木戸をくぐれば右手に勘定場、左手には茶屋の入り口がある。客席は一階と二階にあり、一階の平土間は枡にくぎられた席であった。両側に桟敷席があって、七百五十人程度の観客を収容できた。大型のランプ七基で、間口が約十三メートルの舞台を照らす。茶屋では「注文すると冬は炬燵を桟敷まで運んでくれたし、燗酒を飲みながらの観劇は、当時としてはおつな遊び」(広瀬久也『人形浄瑠璃の歴史』)であった。

御霊文楽座  表と内部升席
図12★図13


 明治四十二年(一九〇九)、文楽座は植村家から松竹合名会社に譲られた。非文楽系も大正期後半に消滅し、三世竹本越路太夫を中心とした文楽座一座だけとなった。
 昭和五年(一九三〇)に四ツ橋文楽座が建てられ、三世竹本津太夫、六世竹本土佐太夫、二世豊竹古靭太夫、人形では女形遣い三世吉田文五郎、立役遣い初世吉田栄三らが参加して名声を得た。
                      つづく