思い出の一枚

アイヌの熊祭りの踊りである。踊りとはいっても足を大地から離さず、両手をくねらせるだけである。
シベリア少数民族の踊り アイヌの熊祭りと同じ所作

琉球久高島正月の踊り

沖縄本島大宜味村ウンジャミ(海神祭)

日本の縄文人以来の芸能の基本はカチャーシー(かき回し、即興乱舞)である。 両手をかざし、手首を回しながら左右に振る踊りで、 天を憧憬しながら基本は大地への執着を表現している。
沖縄奄美の平瀬マンカイ

ショッチョガマと同日の夕方、奄美の秋名で行なわれる収穫感謝・豊作予祝の行事。部落西方の海岸にある〈神平瀬カミヒラセ〉、〈女童メラベ平瀬〉とよばれる二つの岩上で行なわれる。神平瀬には親ノロ・ノロが五人、女童平瀬には男女の神人カミンチュ七人が上り、交互に歌を歌い、稲魂を招くしぐさ(マンカイ)をくり返す。海の彼方(水平線上)の神々を招きよせて、収穫の感謝と来年の豊作を祈願するものである。また神平瀬は二個の平たい石に挿んだ赤飯を供物として供え、初めて祭りを迎える女児に岩を踏ませ、健康に育つことを祈願する。海岸で祝宴が行なわれたあと、夜には八月踊りが行なわれる。〈夕方ー女性ー水平線上の神〉という形をとる。(『沖縄大百科事典』)
江戸時代お蔭参りええじゃないか 日本人の基本の踊りはカチャーシー型

縄文人の信仰は次のように推移した。
縄文時代の日本人の信仰は、万物に霊魂の存在を認める信仰、アニミズムから始まった。やがて、狩猟採集が基本の生業となった段階で、霊魂のなかで人間の生死と深く関わりを持つ霊魂が特別に精妙な働きを持つと信じられてカミの位置に昇華する。それらのカミのなかで最高の位置にあったのが大地の豊穣と女性の受胎能力を結合させた地母であった。連動して、カミに善悪の区別が生まれる。
大陸から天父の信仰が渡ってきたときに、山のカミを男性とみなす地父信仰、地母を天のカミとみなす天母信仰などが生まれたが、これらは弥生時代以降の変化であった。
縄文人渡来ルート

「読売新聞」二〇二〇年四月九日夕刊に「台湾からの渡来 実験の全容刊行」という題の記事が掲載された。最近、講談社から刊行された『サピエンス日本上陸 3万年前の大航海』という書の内容紹介であった。 この本は二〇一九年七月八・九の両日、国立科学博物館チームが、台湾から琉球列島南端の与那国島への丸木舟渡航を実験して成功した記録である。
上の写真は同紙が掲載する日本列島へのホモサピエンス渡来の三ルート図である。
台湾経由は古代アジアの公道

水田稲作は、直接に中国から日本への伝来と、朝鮮半島経由の二系列があり、中国からの伝来ルートは、長江下流域から佐賀県菜畑へのルートと、台湾を経由して、八重山諸島へのルートがあった。台湾原住民は、この第三のルートの直接の担い手だった。
大陸から台湾経過、八重山諸島の与那国島へというルートは、稲作の伝来だけではなく、三万年を遡る人類創生以来のアジアの公道だった。2018年7月15日(日曜日)夜、NHKテレビ「人類創生 第3集 ホモサピエンスついに日本へ」は、まさにこのテーマを扱っていた。台湾と与那国島の間には100キロ以上の大海が横たわり、黒潮が遮っていた。しかし、現生人類の直接の祖先ホモサピエンスが台湾から与那国へ渡り、日本列島へ住み着いたことは、平成20年(2008)から平成28年(2016)にかけて沖縄県石垣市の白保竿根多原(しらほさおねたばる)洞穴遺跡で発見された化石人骨「白保人」で立証された。全身骨格を含む、19体分以上の骨が見つかり、約2万7千年前の後期更新世のものとされた。NHKテレビは、葦船、竹船と実験を繰り返し、最後に、大木を刳り貫いた丸木舟によって渡海が可能となったことを映像で証明した。
台湾原住民が、日本の縄文・弥生人と共通の文化を持つことの実証である。彼らは現代でも大きな木を斧で刳り貫いた丸木舟を、交通・漁などに使用する。日月潭周辺のツォウ族、サオ族など。3万年前の習俗が現在に直接に繋がっている。写真は『FORMOSR』より
さらに、2019年7月8・9両日、国立科学博物館チームが丸木舟渡航を実施して成功した。「3万年前の航海の証拠となる舟は、遺跡から見つかっていない」(「読売新聞」2019年7月28日朝刊)というが台湾原住民社会に証跡が今に残されている。
台湾原住民アミ族民族舞踊

日本の舞踊舞台は天の神ではなく大地の神を招く場所である。 中国や朝鮮の舞踊所作の基本が天に向かって身体を開くのに対し、日本の舞踊所作の決まりのポーズはカチャーシーや日本舞踊に見られるように地に向かって身体を収斂する。
世界の神々の体系は、大地母神中心から天空男性神中心、地母から天父へと大きく推移した。その際に、エジプトや中国少数民族社会のように多神信仰の段階に止まった信仰圏と、キリスト教やイスラム教世界に代表されるように、天父中心の一神教に移行した信仰圏が存在した。日本人は地母への信仰をそのままに保存してきた稀有の民族である。
日本の地母の特質は
生死・出産・大地・地下・洞窟・海・山・豊穣・分身・動物
などをあげることができる。縄文の舞踊に始まる日本の固有芸能・国風芸能には、この地母の信仰がしっかりと息づいている。
明治の光と影―日本の近代 (95)
まとめ 日本文化の本質
4 日本の体系宗教の女神
四回めの夢のお告げは親鸞がすでに法然の門に入った三十一歳、建仁三年(一二〇三)のことであった。再度、京の天台宗寺院紫雲山頂法寺の六角堂に百日の参篭を行なった。ここで親鸞は、その生涯と教義にじつに重大な意味を持つことになった夢告を受けた。参籠九十五日めの親鸞の夢に、頂法寺の本尊「救世 (くぜ)観音が現われ、次のようなお告げをしたのである。
行者宿報にてたとい女犯 (にょほん)するとも
我は玉女 (ぎょくじょ)の身となりて犯されん
一生のあいだよく荘厳し
臨終引導して極楽に生ぜしめむ
汝がこれまでの宿報(「因縁)によって、たとえ女犯の行為があっても、自分(救
世観音)が玉女という完全無欠な女の姿となって、肉体の交わりを受けよう。そし
て汝の一生につれそい、臨終には引導して、極楽に生まれさせよう、という告示の
内容である。
これにつづけて観音は「このことばはわが誓願なり、いっさい衆生に説き聞かすべし」
と仰せになり、親鸞は、「数千万の命あるものすべてにこの教えを説き聞かせよう」
と覚悟したときに夢から覚めたという。
この四回めの夢告の物語の内容は複雑である。すでにのべたように、師の法然は
女人往生を認め、女性と交わる女犯の罪も否定していた。そのような女犯に限定
した師の教えに従う親鸞の妻帯の決意の文とも読めるし、また、女犯に代表され
る法然の教え全体に帰依することになった親鸞の転向の物語とも解釈できる。
いずれにしても、鎌倉仏教を代表する親鸞の浄土真宗は、日本の伝統的地母信
仰に回帰していたのであった。
越後に流された親鸞が最初に住んだところが竹之内草庵であった。この草庵は、
旧国分寺の境内に生えていた孟宗竹を使用して骨組みを造ったことから竹之内とよばれた。その旧居は、現在、上越市の五智 (ごち)国分寺境内に立派な寺として再建され、本堂には親鸞の坐像が安置されている。いまの五智国分寺はこの地にあった国分寺が廃絶したので、のちに越後の支配者となった上杉謙信が戦国時代に再建した寺である。
この竹之内草庵時代に親鸞は妻の恵信尼 (えしんに)と暮らしていた。親鸞は法然
の許しを得て、僧としてははじめて公然と妻を持った。京都にいたときに摂政関白九
条兼実 (かねざね)の娘玉日と結婚していたという説が南北時代成立で伝存覚著の
『親鸞聖人正明伝』にあるが、ときの最高権力者の娘との結婚に疑問を持つ研究者
も少なくない。
確実な妻は恵信尼で、二人のあいだには六人の子が生まれた。
京都の六角堂の夢告体験を経た親鸞は僧侶でありながら妻子を持つことにた
めらいはなかった。しかも、流罪の際に還俗させられて藤井善信と俗名を名乗っていたために、結婚に法的な面でも障害はなかったのである。((諏訪春雄『親鸞の発見した日本』)
つづく