思い出の一枚
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縄文展に展示され、蛇の模様と解説された土器である。考古学者が中心になって博物館が開催した展覧会で展示された土器で、蛇の模様と解説される例は決して多いとは言えない。その意味では貴重な解説といってよい。しかし、残念だが、蛇への関心は低すぎる。縄文の縄目自体が本来は蛇からの変化である。しかし、同展覧会はほかに二点、計三点の蛇模様の土器を展示しているにすぎない。

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埼玉県立歴史と民俗の博物館で2023年11月14日(火曜日・県民の日)より2024年1月14日までl開催されている「縄文コードをひもとく」展覧会の展示である。私は1月10にこの展示を見てきた。

「本展では埼玉県を代表する縄文遺跡や最新の調査で出土した縄文土器を一堂に展示し、かたちや文様、意匠に注目して縄文土器にこめられた縄文人の思想〔縄文コード〕に迫ります。」がこの展覧会のテーマである。縄文という用語は、明治十年(一八七七)に、アメリカの動物学者E.S.モースが東京大森貝塚を調査して出土した土器の模様をcord marked pottery と表現したことに始まる。「陶器類に印された縄」という意味である。これを承けて、蓆、網、籠、布などの織物類の圧痕とする侃々諤々の議論が重ねられ、索紋、縄紋、蓆紋、布紋、網紋などの名称が案出された。ようやく縄文に統一されたのは昭和六年(一九三一)であり、提唱者は考古学者山内清男(すがお)であった。(戸沢充則編『縄文時代研究事典』)
それ以降、日本の縄文学はこの学説に依拠した西欧科学主義の合理思想の上で展開してきた。

今回の展覧会はこの流れを認めたうえで、さらに縄文人の隠された新しい観念や思想(縄文コード)に注目して縄文時代の本質に迫ることを目的としている。その結果、これまでの縄文展にはみられなかった自由な解説が施されている。

ムカデ
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イノシシ
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このように動物模様解説するだけではなく、

双眼突起、三本指の突起、円盤状突起、記号のような模様、沈線文、奇数へのこだわり、S字文、鉤文様、渦巻文、紐通し孔

などなど自由な命名、解説が連続する。この自由な解説によって縄文模様の多様性はよく理解できるし、今後の縄文研究の新しい発展、展開も期待されるのであるが、振出しにもどってしまったという感じも否めない。

一例をあげる
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この土器を豚の鼻状と比喩することは誤ってはいないが、そこに働く論理、思想性、さらに信仰は何か、という思いは禁じ得ない。次の写真と比較しよう。
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台湾屏東県三地門(さんちもん)という村に私設の陳俄安(ちんがあん)博物館がある。この博物館はパイワン族のご主人とルカイ族の奥さんで経営する、この地方では有名な原住民民族の博物館である。ここで、私は多くのことを学んだ。上の写真は博物館門前の飾りである
毒蛇ヒャップラを彫刻した標識を家の前に立てるのが台湾原住民の頭目の家の印である。その上位の大頭目が太陽の子孫であるのに対し、それに続く高位の貴族の象徴で、平民が模倣することは許されない。ヒャップラは日本語の百歩蛇 (ひゃっぽへび)からの変化で、ルカイ語ではパラータ、パイワン語ではカナワナンという。ルカイ族とパイワン族は近縁関係にあり、むかし、人間がヒャップラと結婚したという共通の伝承があり、共に祖先は蛇だと信じている。民芸の壷にきまって蛇の模様がきざまれているのは、その壷から民族の先祖が生まれたという神話があるからである。ここから、日本の縄文時代の甕も、ただの実用容器ではなく、大地母神の母胎と信じられていたことが確認できる。
次の写真も見て欲しい。
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日本の縄文土器の本質を考えるときに参照すべきは台湾原住民のこれらの伝承である。縄文土器を単なる煮炊き用の器具とだけ考えることはできないのである。
最高神太陽に対する信仰は浸透していて、台湾原住民種族の貴族(大頭目など高位の人々)だけは、太陽を象徴する模様を身に着けることができる。
上の写真は太陽の図形の冠を被ったパイワン族大頭目である( 『排湾族神話与伝説』)。円形が最高権威を表わす太陽であることが分かる。
次の写真はサオ族が阿里山から日月潭に移住したときに先祖が帯同したという日月図の木板である。円形は太陽、曲形は月を現わし、民族の重要な祭礼には祭壇に必ず飾るという( 洪英聖『台湾先住民脚印』)。曲形は月ではなく、蛇の可能性も強い。
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円形は縄文人にとっても原型は太陽であったのである。
蛇と太陽に対する信仰は地球規模に広がるが、ことに東南アジア、東アジアにかけて顕著である。日本の南方系縄文人、弥生人はこの蛇と太陽の信仰を持って、主として、中国大陸から朝鮮経由で九州へと、台湾を経由して八重山諸島へと、渡ってきた人たちであった。そのために台湾原住民が現在も保持している蛇と太陽の信仰は、文献的にも資料的にも大きな限界を抱えてその解明が十分ではない日本の縄文文化、弥生文化を考察するこのうえない参考資料となるのである。

今回の埼玉県立歴史と民俗の博物館の縄文展は、まだまだ問題を多く抱えてはいるが、これまでの明治以降のモースに始まる固定された縄文観を打破するきっかけを与える可能性を持った展示会であった。縄文研究の今後に期待させる展示である。

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写真は同博物館の入口である。大宮公園の鬱蒼とした森林に囲まれた一郭に位置している。入口近くには食堂、売店などが並ぶ休憩所がある。私は、その休憩所で食事をとりながら、樹木に囲まれた自然環境の中で、静かで、穏やかな、なつかしい時間を過ごすことができた。




 明治の光と影―日本の近代 (96)
まとめ 日本文化の本質
5  日本人の信仰の特色 本地垂迹論に見る《融合》

 「本地垂迹」という術語は、『法華経』「寿量品」にあり、「久遠実成釈迦」すなわち永久不滅の理想的釈迦を本地とし、歴史的現実として実在した釈迦を垂迹とする。この関係を神仏の関係に応用し、日本の神々は本来仏菩薩で、本地の仏菩薩がこの世に垂迹し、神となって権現すると考えるようになった。神が出家して菩薩になるという前代の神仏習合(八幡大菩薩など)をさらにすすめて平安時代の中期までには成立していたという(川村知行「本地垂迹説」『仏教文化事典』) 。
この定説には多くの不備がある。仏と神を習合し、仏を本地、神を垂迹とする思想は日本独自のもの である。 インドや中国に神仏同体の本地垂迹論は生まれていなかった。
 インドの仏教は、先行するバラモン教やヒンズー教の神々を仏教の中に取り込み帝釈天、弁財天などの仏教守護の神々に位置づけた。しかし、これはインドの内部で仏教成立期に起こったことで、他国の神々の習合ではない。しかも、仏と諸天が同体なのではなく、両者は別の存在である。天部の神々は仏の下部に組みこまれた被征服神なのである。
 仏教が中国に伝来したとき中国では道教という強固な宗教が存在していた。やや遅れて、儒教も成立した。この道教、儒教の神々と仏とのあいだにも、日本の本地垂迹のような現象や理論は生まれていない。渡来の仏と在地の神々は異質のままに共存はしたが、両者を同一の神・仏の変化形と考える本地垂迹論は生まれなかった。
 中韓では神仏は上下関係のなかで配置されている。
 中国の民間祭祀には多くの神々が祭壇に招かれる。場合によると、二百種、三百種の神々の名が列挙される。そこには、道教、仏教、儒教の神々、仏が同居している。それらの神仏は異質な存在が異質のままで上下関係のなかで配列されているということである。本地垂迹のような両者が同体となる習合ではない。

 中国南通県の儺祭に招かれた神々。祭壇に飾られた神像と神名。
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この中国と同じ現象は韓国にも見られる。韓国にも日本のような仏神同体の本地垂迹思想は存在しない。
 韓国巫の信仰する神霊の階級分類は次のようになっている(赤松智城・秋葉隆『朝鮮巫俗の研究』)。
 
1 天上霊 玉皇上帝・帝釈天・仏菩薩・日月神他
2 英雄霊 歴史上実在した英雄偉人勇者他
3 始祖霊 国・王朝・氏族の祖先神
4 巫祖霊 巫の始祖の霊、法祐和尚・聖母天王他
5 家宅神 家宅・一族一門の守護神
6 土地霊 洞・里・邑の全体を支配し守護する神
7 風神 海岸地方や済州島などで信じられる風の神
8 方位神 五方神・八方神など
9 巫霊 個々の巫の守護神
10 生老病死などの鬼神 
11 他界霊 
12 聖樹 
13 霊獣
14 遊離魂 
15 随身霊
              つづく