新しく「縄文新論」の連載を開始しました。これまで、縄文考古学者、古代史研究者などの誰もふれたことのない、まったく新しい縄文文化論です。

Ⅱ 原型としての台湾原住民文化
3  鋸歯紋
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   上の図は、鋸歯紋が蛇の鱗に由来することをよく示している写真である。台湾原住民ルカイ族の家の入口に掲げられている図である。中国南部の越人といわれた人たちは蛇に対する信仰を持っていた。彼らは家の入口に蛇の図を掲げていた。その流れを汲む台湾のルカイ、パイワンなどの原住民もまた、いまだに、家の入口や、家の中の柱に蛇の模様を掲げている。彼らは蛇が魔を払って家族の安寧を守ってくれると信じているからである。
 越人は直接に、あるいは台湾経由で日本へも渡り、蛇の信仰も日本へ伝えられた。三角縁神獣鏡はその証跡の一つである。
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    上の図は頭部に蛇を巻き付けた縄文土偶である。普通に蛇巫とよばれて、蛇を使って占いをしたといわれている。果たして、縄文時代に蛇を呪具に使用した蛇シャーマンが存在したかどうかは疑問で、のちに詳しく検討するが、頭に蛇の模様の被り物をつけた高貴の人物がいたことは、台湾原住民文化から考えて認められる。そして蛇の模様が容易に鋸歯紋に変わることも推測される。 
    次の図は、幕末の浮世絵師一勇斎国芳作の「忠臣蔵十一段目」の討入り場面である。中央に胡坐を組んでいる人物は大星由良之助(史実の大石内蔵助)である。背後の義士たちも含めて、全員が火消衣装を着て討ち入ったことはよく知られている事実である。黒地に白の鋸歯紋である。火消は身の危険を防ぐためにこの模様の衣装を身に着けていたのである。
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    このように、蛇の鱗形に始まった鋸歯紋は、一個の三角形に対する信仰をも生み出して日本社会に定着していき、また、組合せを変えて家紋の鱗形(うろこがた)紋(もん)になった。 
    次の図は三角形を組み合わせた鱗形紋である。
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    次は幽霊画である。幽霊は、生前の姿で出現する。額に三角巾をつけているのは、死者を葬るときに、魔払いのために、額につけている。鳥山石燕『図画百鬼夜行』に掲載されている図である。
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    同様に三角形が魔払いの力を持つと信じられていた例証は、修験道の宝器三鈷(さんこ)である。修験道では、山伏が身に帯びる宝剣の先端も三角形である。
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4 倭人と越人 

    のちに詳しくのべることになるが、台湾原住民は、中国大陸で越人または倭人とよばれていた人たちと同一人種である。そのように考えることによって、台湾原住民が日本列島へ渡って、縄文人となったことも理解できるのである。
    中国長江下流域、朝鮮半島南部、日本などに古来倭人とよばれる人たちが住んでいた。紀元前後成立の『山海経』『漢書』『論衡』などに記載されている。
    倭は、背が低い、未開、従順などあまりよい意味ではない。その長江南部には百越とよばれる人たちも住んでいた。『漢書』そのほかではベトナムから中国浙江省に至る地域に百越は広がっていた。
    私は倭人はこの百越つまり多くの越人の一部と考えている。その理由は百越の居住地の広がりと時代の古さである。百越の存在は新石器時代晩期、紀元前五千年まで遡る(『百越史論集』、『壮族通史』、ほか)。越人の建てた呉や越が紀元前四世紀のころに亡び、朝鮮、日本などに渡っていった。それが倭人である。
     越人の習俗と日本人の古代習俗に類似性が多いのはそのためである。
    『三国志』(三世紀成立)の「魏志東夷伝」の倭人の記録、一般にいう「魏志倭人伝」に日本の倭人の習俗について次のようにのべる。
    海の魚をとり、航海に優れ、文身、断髪、蛇や竜に対する信仰、すっぽり被って頭を出す袋型の衣装、航海の持衰(じさい、うまくいくと厚くもてなし、失敗すると殺す犠牲者)、父方、母方双方の血筋を辿れる双系的親族制度、歌垣や妻問い婚、一夫多妻、ヒメが聖((祭り)、ヒコが俗((政治)を担当するヒメヒコ制、王殺しなどの習俗があげられている。稲や苧(ちょ)麻(ま)を植え、蚕から絹をつむぎ、絹織物や綿織物を生産する。
この記述は二世紀から三世紀、弥生時代後期後半に当たる時期の記事である。基本的に越人の習俗と重なっていた。
    越人に属する種族は次の民族である(『周礼』ほか)。

チワン族 一三三七万 壮族
プイ族 二一二万 布依族
スイ族 二八万 水族
トン族 一四二万 侗族
リー族 八一万 黎族
タイ族 八三万 傣族
高山族 四〇万
そのほか 

    越人は、新石器晩期(紀元前五〇〇〇年)くらいからそれぞれの土地に住み着いていた( 『百越史論集』)。倭人は、この越人のなかで、とくに中国北方漢民族国家と深い繋がりを持った人たちが、一種の貶称としてよばれたのである。
 ここで私が強調したいことは、台湾の原住民はこの倭人、越人の文化を伝えていたという事実である。前掲の高山族は、漢民族が台湾原住民をよぶ呼称である。

5 鯨面文身

   台湾原住民は倭人であり、越人であるという視点に立つとさらに多くの事実が見えてくる。
 『魏志倭人伝』に入れ墨について次のようにのべられている。倭人の習俗としてもっともよく知られる記事である。
 
 男子は、おとな、子供の区別無く、みな顔と体に入れ墨(鯨面文身)している。いにしえより、その使者が中国に来たときには、みな自ら大夫と称した。夏后 (王朝)の少康(五代目の王)の子は、会稽に領地を与えられると、髪を切り、体に入れ墨して蛟龍の害を避けた。いま、倭の水人は、沈没して魚や蛤を捕ることを好み、入れ墨はまた少康の子と同様に大魚や水鳥を追い払うためであったが、後にはしだいに飾りとなった。諸国の入れ墨はそれぞれ異なって、左にあったり、右にあったり、大きかったり、小さかったり、身分の尊卑によっても違いがある(『魏志倭人伝』水野祐『評釈魏志倭人伝』)。
 
    呉越の入れ墨については前にも引用した( 1 5蛇と竜)『史記』の「世家」に次の記載がある。『新釈漢文大系』((明治書院)より引用する。
 
    (呉人は)常に水中に在り、故にその髪を断ちその身に文し、以って龍子の像(かたち)をす、 故に傷害を見ずなり。「呉太伯」
     呉王夫差(ふさ)いわく。「我は文身す。礼を責むるに足らず」。「魯周公」
会稽に封ぜられ…身に文し髪を断ち、草莱(そうらい)((雑草の茂った荒地)をひらきて邑(ゆう) す。「越王句践」
   「それ髪をきり身に文し、臂(ひじ)を交へえりを左にする(左前の襟にする)は甌(おう)越(えつ)(南越)の民なり。歯を黒くし、額に彫りものをし、魚皮の冠をかむり、太(ふと)針(はり)で縫った粗衣(あらぎぬ)を着るのは大呉の国なり。「趙武霊王の言葉」
 
   『魏志倭人伝』と対応するこれらの『史記』の記事から、呉越の人たちが鯨面文身の習俗を持ち、北方の漢人からは異様に見られていたこと、そのねらいは障害を防ぐことにあったことが読みとれる。

 入れ墨の目的は事実としては多様であった。入れ墨については通常次のように説明されている。
 
   『魏志倭人伝』に「倭人は鯨面文身をしている」とある。鯨は顔面、文身は身体への入墨をさす。江戸時代、身体装飾として遊侠の徒の間に文身が流行し、また刑罰として主に腕に入墨して前科の目印とした。南島には近代まで残っていた入墨の民俗がある。成女儀礼に主に指背や手甲に施術したが、時期や模様は一定していない。『隋書』の「琉球国伝」に「婦人、以墨鯨手、為虫蛇之文」とある。入墨の民俗は、奄美で一八七一年((明治四)、沖縄県で一八九九年((明治三十二)に禁止令が出て、表立っては姿を消した。アイヌの女性にも顔に入墨する風があった。(『日本歴史大事典』小学館)
 
     身分・個体識別、刑罰、化粧、装飾などの目的をも持つようになっていた。
これまでもふれてきたように、蛇の信仰と結びついて、入れ墨の習俗は東アジア、東南アジア、太平洋地域に広まっている。
 
 ベトナム、ラオス、タイ、ビルマ、インドネシア、ミクロネシア、ポリネシア、メラネシア、ニュージランド、オースイトラリア、 
 
などの各地に入れ墨が見られる(水野 裕『評釈 魏志倭人伝』)。
 
     台湾原住民も多くの種族が入れ墨をしている。
 
    タイヤル族(アタヤル族とも)の男子は若者団体に加入するときかならず入れ墨をする。しかし、男子は、以前は首狩りを経験するまでは入れ墨はできなかった。通常、男子は額の上に入れ墨をする。女性は入れ墨をしなければ結婚できず、一部集落の女性は股に入れ墨する。部落には入れ墨を担当する専門の女性がいる。
 サイシャット族の男性は額、下顎、胸に入れ墨をする。女性は額にするが、瞼や頬にはしない。入れ墨の男女は成年と認められ、ことに胸部の入れ墨は勇者のしるしである。
 ツォウには入れ墨の習慣はない。ただし少数の女性は手の指の背に入れ墨している。
 パイワン族は入れ墨の習俗を持っている。ただし、その習俗は限られた一族となっている。男性は胸と背、女性は両手の背の上に入れ墨をする。しかし、次第に
その習俗は一部の人に限られてきている(『FOAMOSA 原住民図録と解説集』)。

   胸に入れ墨をしたサイシャット族の勇者
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    額と顎に入れ墨したタイヤル族の女性 
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   入れ墨を専門とするタヤル族の女性彫り師
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                                                                                (つづく)