思い出の一枚

2006年7月10日~21日、12日間かけて中国四川省重慶の少数民族トウチャ族の死者供養大道場を調査した。死後年数を経過した死者の葬儀「道場」の10間以上続く規模の大きなものを大道場という。この儀礼を主宰する法師は道儒仏三教混合の地方の巫師のグループである。道場の儀礼は朝鮮半島に伝来したが日本には伝わっていない。
中国で54の少数民族の居住環境は劣悪である。辺境、山上、砂漠などに追われている。このトウチャ族の住む集落も重慶からバスで7時間、さらにそこから悪路を車で2時間半かけて集落入口に着き、あとは徒歩で現地に入った。道は山際や田圃の中を人一人がやっと通れる程度の幅で蛇行していた。革靴の私は何度もこの道から滑り落ちそうになった。集落の人口は千人ほど。山肌にしがみつくように家が散在していた。その内の一軒、酉陽県小河鎮の曾華昌一族の大道場をその家に泊まり込んで調査した。
10日間にわたる道場の儀礼の基本の目的は、祖先の霊を結界した道場に招き、歓待して送り返すことである。そのために神仏の援助と許しを乞う。そのときに先祖の霊とは無関係な孤魂や幽鬼の類が道場にまぎれこんでくる。これらは慎重になだめたり鎮圧したりして道場から追い出してしまう。また祖先の霊は極楽のほかに地獄からも招く。そのために法師は地獄を巡歴して門を破壊して死者の霊を救出する。
7月16日(日曜日)、午後、近所の小学校に移動してこの地獄巡歴と破壊、亡者救済の儀礼が演じられた。上の写真。法師と家族総出の儀礼である。校庭にはあらかじめ十八大地獄を現わした複雑な迷路が描かれていた。一行は法師を先導にこの迷路を廻り、要所で法師が祈りを捧げて亡者を救済した。師の法師は宝冠をかぶり、杖を持ち、肩には白い布をかついでいる。明らかに目連伝承をなぞっていたのであった。
道場という施餓鬼行事はそのままでは日本にない。最終日の葬具の川での焼却、また、使神としての船と馬の造り物から明らかなように、道場には中国文明の二大要素である大地の信仰と天の信仰が混在している。この天の信仰のために日本人は道場全体は受容せず、大地の信仰のために儀礼の幾つかは受け容れているのである。
縄文新論(29)
新しく「縄文新論」の連載を開始しました。これまで、縄文考古学者、古代史研究者、そして日本人の誰も考えたことのない、まったく新しい縄文文化論です。そこから、日本古代史の書き換えが始まります。
Ⅴ 縄文・弥生文化の道
4 台湾経由は古代アジアの公道
他の土地からも舟形木棺は出土している。
新疆ウイグル自治区羅布泊小河墓地出土 舟形木棺

南船北馬の熟語が示すように、砂漠地帯の中国北部の主要交通手段が馬であったのに対し、沼、河、湖の多い中国南部の主要交通手段は舟であった。そうした生前の交通手段が南部の死者の舟形木棺を誕生させたと考えられる。
さらに、舟形木棺は日本でも使用されていた。
奈良県 広陵町巣山古墳出土の舟形木片
紀元前十世紀頃以降、中国南部から稲作を中心とする文化様式を持つ倭人(弥生人)が流入すると、各地に「クニ」とよばれる地域的政治集団が形成された。これらの地域的政治集団により、朝鮮半島南部から南西諸島まで、海上交易で結びついた緩やかな倭人の文化圏が構成されていった。一、二世紀前後に各クニが抗争をくり返し、三世紀から七世紀の古墳時代、各地に地域的連合国家が形成された。そして北九州から本州にかけて存在した国家群から、もっとも有力であったヤマトを盟主とした統一王権(ヤマト王権)が形成された。このような日本国家の形成期、発達した西南シルクロードを経由し、東南アジア、中国南方の文化が伝来し、日本文化の基層となった。その主要公道は台湾経由であった。
結び
「読売新聞」二〇一八年七月二十二日朝刊の「縄文人ラオスに祖先?」では、愛知県の伊川津貝塚から発掘された約二千五百年前の縄文人は、東南アジアの狩猟採集民族にルーツを持つ可能性があることが分かったと、金沢大などの国際研究チームが発表したと報じていた。縄文人の人骨から全遺伝情報( ゲノム)を初めて解析し、あきらかになったという。
論文は七月六日付の米科学誌『サイエンス』に掲載された。国際研究チームは縄文人の遺骨のほか、ラオスやマレーシアなどの遺跡で発掘された約八千年~二千年前の人骨二十五人分のゲノムを解析。縄文人と比べると、ラオスの遺跡( 約八千年前)から発掘された狩猟採集民族やマレーシアの遺跡( 約四千年前)から見つかった人骨のゲノムとよく似ていたという。
これまで、私が主張してきた
〇日本の縄文人の渡来には北方から北海道へと、南方から朝鮮経由、台湾経由の、大きく三つのルートがあった。
〇南方から日本列島への渡来人のルートとして重視すべきは中国四川省成都から雲南・ミャンマーを経てインドに入る西南シルクロードである。
〇日本の縄文・弥生文化の担い手となった倭人の主要渡来ルートは、中国大陸→台湾→八重山諸島である。
などの考えに強固な証拠が提出されたことになる。もう一つ、今回の金沢大の発表で、縄文と弥生の区別は人種などの絶対的違いではなく、ことに南方ルートの縄文人と弥生人は、同じ倭人の狩猟採集と稲作の、文化段階の違いを示すということが、はっきり分かった。
「読売新聞」二〇一九年七月二十八日朝刊は北海道礼文島の縄文時代後期( 約三千八百年前~三千五百年前)船泊遺跡の女性のDNAのゲノム情報が現代日本人と共通し、大陸の漢民族より、沿岸の韓国人や台湾原住民とわずかながら近かったと報じている。
太陽と蛇に対する信仰は地球規模に広がるが、ことに東南アジア、東アジアにかけて顕著である。日本の南方系縄文人はこの太陽と蛇の信仰を中心とした採集狩猟文化と陸稲系農耕文化を、弥生人は太陽と蛇の信仰を中心とした水稲系農耕文化を持って、主として、中国大陸から朝鮮経由で九州へと、台湾を経由して八重山諸島へと、渡ってきた人たちであった。
当時の素朴な丸木舟で海の外へ乗り出すためには、目的地がぼんやりとでも行先に見えることが望ましい。私の体験からいって、福建省厦門(あもい)のあたりからは、金門島をはさんで台湾本島が、台湾本島の基(きい)隆(るん)の最北端からは八重山諸島の与那国島が見える。与那国島からは、島伝い、陸地伝いで九州へ渡ることができる。

福建省厦門の海岸に台湾を望んで立つ鄭成功像。鄭成功は、一時期、台湾を統
治した英雄で、明人の父と日本人の母との間に生まれた。 中国福建省厦門から、
台湾領の小金門島や金門島は手を延ばせば届きそうな近距離にある。
台湾原住民が現在も保持している太陽と蛇の信仰、採集狩猟と陸稲農耕の文化、そして、住居、葬法、霊魂観、女神信仰、祭礼などなどは、文献的にも資料的にも大きな限界を抱えてその解明が十分ではない日本の縄文文化、弥生文化を考察するこのうえない参考資料となるのである
(この稿終了 次回から新しい連載を開始します)